に呼吸のつける、どこかへ妾は行ってしまいたい)
彼女はこういう心持ちで歩いた。そういう彼女を寮の近くから、後を尾けて来た侍があったが、他ならぬ十二神《オチフルイ》貝十郎であった。
(どうぞして誰にも悟られないように、あの娘を連れ出そうと思っていたところ、幸い自分から脱け出して来た。さてこれからどうしたものだ)
貝十郎は思案しいしい、お島の後から尾《つ》けて行った。
両国を渡り浅草へはいり、お島が薬売りの藤兵衛の剽軽《ひょうきん》の口上を放心的態度で、聞きながら佇《たたず》んでいるのを見ると、貝十郎は頷いた。
(一つ暗示を与えてやろう。ああいう娘には暗示がかかる。藤兵衛を利用して暗示をかけてやろう)
喋舌っている藤兵衛の背後《うしろ》に廻って、貝十郎が藤兵衛の耳へ、立ち合いの群集に気づかれないように、囁きかけたのはそれからであり、藤兵衛がお島へお島のことを、話しかけたのもそれからであった。
ここで事件は和蘭《オランダ》客屋の、奥の部屋へ帰って行かなければならない。鏡へお菊と大日坊と勘三との姿が写っていて、お島ににせ[#「にせ」に傍点]た人形が、机の上に置いてあった。
三人は何やら云い争い出した。勘三が最も多く喋舌り、大日坊へ何かを強いているようであった。それをお菊が悩ましそうに、熱心に止めている様子であった。そういう二人の間に立って、大日坊は当惑している様子であったが、やがて何やらお菊に向かって、訓《さと》すがように説き出した。その三人であるが、話し合っている間じゅう、机の上の人形の方へ、たえず瞳を注いでいた。
そういう光景が黒塗り蒔絵の、額縁を持った大鏡の中で、芝居ででもあるかのように、ハッキリと写っているのである。
大日坊はお菊を説き伏せたようであった。お菊を説き伏せた大日坊は、やおら人形へ近よると、鋭く人形を凝視した。手に戒刀を握っている。と、その戒刀が頭上へ上がった。思う間もなく切り下ろされた、と、その瞬間鏡中の世界を、佇んで見ていたお島の体へ、頭上からフワリと布が冠《かぶ》された。
甲必丹《キャピタン》カランスが背後から、手に持っていた黒布《くろぬの》を、その瞬間に冠せたのであった。
「あれ!」
とお島は意外だったので、黒布《くろぬの》の中で声を上げた。しかしその次の瞬間には、黒布《くろぬの》は既に取り去られていた。お島は鏡中の世界を見た。三人の男女が審《いぶか》しそうに、人形を取り上げて調べている。戒刀で人形を切ろうとしたのらしい。しかるに人形が切れなかったので、驚いているという様子であった。人形が机の上へ置かれた。また大日坊は戒刀を振り上げた。
その戒刀が鏡の中で、白く横の方へ流れた時、またもお島は背後から、黒い布で全身を包まれた、が、その刹那《せつな》迂濶千万にも、お島は髪を崩すまいとして、片手で黒布を上へ揚げた。その拍子に指の先が布から出た。
「痛い!」とお島は悲鳴を上げた。
布が体から取り去られた時、お島の右の手の中指の先から、血が掌の方へ流れていた。切り傷がそこについている。と、鏡中の世界の人は、またも人形を取り上げて、奇怪至極だというように、その人形を調べ出した。人形の左の手の中指に、どうやら傷でもついたらしく、そこを三人は調べ出した。
またもや人形は机の上へ置かれ、またもや大日坊は戒刀を振り冠った。そうしてまたもやお島の全身が、黒布《くろぬの》によって蔽《おお》われた。しかしその布が取り去られた時、お島の体には異変はなかったが、鏡中の人々には異変があった。戒刀が折れて折れた先が、勘三の咽喉を貫いていた。
八
この頃小梅の柏屋の寮を、取り囲んでいる人影があった。目明し、橋場の仙右衛門が、同心佃三弥に指揮され、乾児《こぶん》十二人と一緒になって、捕り物をすべく囲んだのであった。
不意に深夜の静寂を破り、男の悲鳴が家の中から聞こえ、つづいて騒がしい人声が起こり、つづいて雨戸を蹴開く音がし、すぐに男女の人影が、裏木戸の方へ走って来た。
「御用!」
「何を!」
「勘助御用だ!」
「仙介か! ……やっぱり……岡っ引だったな!」
「やい、神妙にお縄をいただけ!」
「…………」
「夜叉丸! 手前も……年貢の納め時だ!」
「馬鹿め! 人足! 捕れたら捕れ!」
小間使いお菊の女勘助と、大日坊の火柱夜叉丸とは、戸を蹴破って飛び出した。
ご用聞きの仙介に身をやつしていた、目明しの仙右衛門は飛びかかった。ガラガラという錫杖《しゃくじょう》の音! 月光に閃めく匕首の光! ムラムラと寄せ、ガッと引っ組み、バタバタと仆される捕り方の姿! 枕橋の方へ一散に走る、夜叉丸と女勘助との姿が見えた。
「廻れ! 右の方へ! 三囲《みめぐり》の方へ!」同心佃三弥が叫んだ。
「旦那、冗談、そんな
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