れた海産問屋で、支那や和蘭《オランダ》とも貿易をし、盛大にやった身分であった。――などとお蝶は話したりした。しかしお蝶は身の上については、多く語ろうとはしなかった。隠すというのではなかったが、目下の生活が華やかでない、それだのに過去の華やかであった生活《くらし》を、今さらになって話すのは、面はゆくもあれば笑止でもあると、そんなに思う心から、語らないというような態度を見せた。そういう態度が京一郎には、床《ゆか》しく思われてならなかった。
表構えは粋であり、目立たぬ様子に作られてあったが、家の内は随分|豪奢《ごうしゃ》であり、それに調度だの器具だのが、日本産というより異国産らしい、舶来の品で飾られてあり、お蝶の締めている帯なども、和蘭《オランダ》模様に刺繍《ぬいとり》されてある――そういう点などがお蝶という女の、父だという人の身分や生活を――昔の身分や生活を、それらしいものに想像させた。
「風変わりの楽器でございましょうが……」
こう云ってお蝶は手を伸ばして、床の間に置いてある異風の楽器を、取りよせてそっと膝の上へ据えた。胴が扁平で三角形で、幾筋かの絃《いと》で張られていた。
「象牙の爪で弾くのですけれど……」云い云いお蝶は四辺《あたり》を忍ぶように、指の先で絃を弾いた。
「バラードという楽器でございますの。和蘭《オランダ》の若い海員などが甲板《かんぱん》の上などで弾きますそうで」
バラードの音色は聞く人の心を、強い瞑想に誘って行った。
聞いている京一郎の心の中へ、海を慕う感情が起こって来た。海! 海外! 自由! 不覊《ふき》! ……そういうものを、慕う感情が、京一郎の心へ起こって来た。不意にお蝶はうたい出した。
三
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※[#歌記号、1−3−28]かすかに見ゆる
やまのみね
はれているさえなつかしし
舟のりをする身のならい
死ぬることこそ多ければ
さて漕ぎ出すわが舟の
しだいに遠くなるにつれ
山の裾辺の麦の小田《おだ》
いまを季節とみのれるが
苅りいる人もなつかしし
わが乗る船の行くにつれ
舟足かろきためからか
わが乗る船の行くにつれ
色も姿もおちかたの
ふかき霞にとざされぬ
われらの舟路! われらの舟路!
[#ここで字下げ終わり]
それはこういう歌であったが、ここまでうたって来るとうた
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