返そうとした。しかしその時木立の蔭から、こう云う声が聞こえて来たので、引っ返すことは出来なかった。
「中へはいってごらんなされ。さよう、田沼侯のお屋敷の中へ! せめてお屋敷の庭へなりと。……貴殿がおはいりになられるようなら、拙者ご案内をいたすでござろう」
十二神《オチフルイ》貝十郎の声であった。
「十二神《オチフルイ》氏、そこにおられたのか」新八郎はテレたように云った。「田沼侯のお屋敷へはいれと云われる、何んの必要がありましてかな?」
「『ままごと』の中に何があるか、献上箱の中に何があるか、貴殿お知りになりたくはないので?」尚も木蔭から貝十郎は云った。「貴殿の恋人お品殿が、松本伊豆守に引き上げられた。その松本伊豆守が、献上箱と『ままごと』とを仕立てて、たった今田沼侯の屋敷へはいった。二品は賄賂《まいない》の品物でござる。ところで、世上にはこう云う噂がござる。人形と称して生きた美女を献上箱の中へ入れ、好色の顕門へ納《い》れるという噂が。……」
「それでは今の献上箱の中に。……」
「お品殿がはいっておられようも知れぬ」
「行こう!」
「行かれるか?」
「屋敷の中へはいろう!」
「ご案内しましょう。おいでなされ」
老中田沼侯の下屋敷の庭へ、外から忍んで入るというようなことは、考えにも及ばない不可能事のように、今日では想像されるけれど、あながちそうでもないのであって、鼠小僧というような賊は、田沼以上の大大名、細川侯の下屋敷の、奥方のおられる寝所へさえ、忍び込んだことさえあるのであった。
貝十郎は風変わりの、しかも素晴らしい技倆を持った、聡明で敏捷な与力であった。田沼家の案内など、知っているのであろう。新八郎の先に立って、木立を抜けて先へ進んだが、やがて田沼家の横手へ出た。ひときわ木立が繁っていて、その繁みに沿いながら、田沼家の土塀が立っていた。
「この辺最も手薄でござる」
こう囁《ささや》くと貝十郎は、立ち木の一本へ手をかけて、足で土塀を蹴るようにした。と、彼の姿はもうその時には、土塀の上に立っていた。そうしてその次の瞬間には、土塀から邸内へ飛び下りていた。新八郎も同じようにして、田沼家の邸内へ飛び下りた。
十
大名の下屋敷の庭の構造《つくり》などは、大概似たようなものであって、泉水、築山、廻廊、亭《ちん》、植え込み、石灯籠、幾棟かの建物――な
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