うような、高名の幾人かの町奉行から「部下」として力にされたばかりでなく「賓客」ないしは「友人」として尊敬されたほどであった。それに彼は学者であった、とは云え天保年間の、大塩中斎というような、ああいう厳《いか》めしい陽明学者ではなく、いうところの軟文学者――いうところの俗学者であった。でその方面の友人には、蜀山人だの宿屋飯盛だの、山東京伝だの式亭三馬だのそう云ったような人達があり、また当時の十八大通、大口屋暁翁だの大和屋文魚だの桂川甫周だのというような、そういう人達とも交際があった。
 後世田沼主殿頭が、まことにみじめに失脚した時、それを諷した阿呆陀羅経が作られ、一時人口に膾炙《かいしゃ》したが、それを作ったのが貝十郎であると、当時ひそかに噂された。
 ※[#歌記号、1−3−28]そもそもわっちが在所は、遠州相良の城にて、七ツ星から、軽薄ばかりで、御側へつん出て、御用をきくやら、老中に成るやら、それから聞きねえ、大名役人役人役替えさせやす。なんのかのとて、いろいろ名をつけ、むしょうに家中の者まで、分限になりやす。あんまりわっちも嬉しまぎれに、とてものついでに、大老なんぞと、これからそろそろむほんと出かけて、出入りの按摩を取り立て、お医者とこしらえ、玉川上水、印旛の新田、吉野の金掘り、む性に上納、御益のおための、なんのかのとて、さまざま名をつけ、おごってみたれば、天の憎しみ、今こそ現われ、てんてこ舞いやら。ヤレまたまたむすこは切られて、孫はくわるる。印旛の水から、関東へ押し出し、新田どころか、五年が間は、皆無になりやす。やれやれ、それから取り立て医者めが、薬が異って、因果とわっちが落度となりやす。御役ははなれて女の老中に、めったに叱られ、これまでいろいろ瞞《だま》して取ったる五万七千、名ばかり名ばかり、七十づらして、こんなつまらぬことこそあるまい。ほんとに今年は、天時つきたる。悲しいことだにほういほうい。
 ――これが彼の作った阿呆陀羅経なのである。辛辣、諷刺、事情通、縦横の文藻、嘲世的態度、とうてい掻《か》い撫《な》での市井人が、いいかげんに作ったものでないことは、おおよそ見当がつくことと思う。殊に一代の名臣ではあったが、その消極的政策と緊縮、節約主義とによって、浮世を暮らしにくく窮屈にした、白河楽翁|事《こと》松平越中守を「女の老中」と喝破したあたりは、彼でなければ
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