林様の体が顫え、片手が刀の柄にかかった。で、我輩は急いで云った。
「浜の方へでも参りましょう、海など見ようではございませんか」
「うん」
と館林様は云われたが、尚体は顫えていた。それでもとうとう歩き出した。浜にも海にも変わったことはなかった。ただ寂しいばかりだった。
翌朝《あくるあさ》とも云わずその夜のうちに、館林様は大野を去られた。一人で、寂しく、飄然と、裏切られた先駆者の悩みを抱いて。
翌日の晩みよし屋の本店で、蔦吉を招んで我輩は飲んだ。
「お前の八人芸、巧いものだな」
「お役に立って何よりでした」
「よく六人の無頼漢《ならずもの》どもの、声の特徴を真似したものだ」
「それでも妾《わたし》はハラハラしました。殿様から教えられた白《せりふ》といえば、あそこ[#「あそこ」に傍点]までしかなかったのですから。あれから先が入用《いる》ようなら、どうしたものかと思いましてね」
「あれはあれだけでよかったのだった」
「それにしても妾には不思議でならない。誰もいないあんなみよし屋の寮で、六人の声色を使うなんて」
「お前にあそこへ行って貰う前に、三人の男が住んでいたのだ。そうして他にもう三人の男が――そいつらは人目に立たないように、他の貸し別荘にバラバラになって、めいめい住んでいたのだが、時々あそこへ集まって、よくないことを企んでいたのさ。が、そいつらはお前が行く前に、あわてて引き上げて行ってしまった。引き上げさせたのは俺なのだがな」
「妾、芸当をやりながら、障子の隙から見ていました、大変品のあるお武家様が、あなた様と連れ立っておいでなさいましたのね」
「あのお方へお聞かせしたかったのさ、そのお前の芸当をな」
これは後から聞いたことだが、富豪と浪人とを呼び寄せて、館林様が事を起こそうとした、――その事というのは謀反などではなく、穏かな政策に過ぎなかったそうだ。
荻生徂徠が云っている。
「浪人は元来武士なれば町人百姓の業もならず、渡世すべき様なければ、果ては様々の悪事を仕出すものなり、これを生かす法は、その浪人仕官の頃百石取り以上なれば、たとい幾千石に至るとも、地方にて知行五十石ずつ下され、やはりその土地に差し置かれ郷士とすべき也、されば十万石の家潰れても、公儀へ八万石ほど奉りて余の二万石を件《くだん》の郷士の領とすべし。五十石を不足と思い、他所へ立ち去る人は心次
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