珠太郎殿、海の方をご覧」
 放心したように考え込んでいる、珠太郎へ我輩は小声で云った。
「素晴らしいものが見られますよ」
 不承不承に珠太郎は、海の方へ眼をやった。もちろん我輩も海の方を見た。と、その二人の視界の中へ、真っ白の物が躍り込んで来た。我々の頭上の岩の頂から、素裸体《すっぱだか》のお小夜が海へ向かって飛び込みをやった形なのさ。
 水音! 飛沫《しぶき》! 水底へ消えた彼女! が、すぐに浮き出して、泳いで行く島田髷と肩と腕!
「あッ、お小夜だ! お小夜だお小夜だ!」
「さよう、お小夜です。大変なお小夜です。……帰って来るまで見ていましょう」
 かなりの時間が経った時、彼女、お小夜は帰って来た。ヌックリと海から陸へ上がり、ノシノシと岩へ上がって行こうとした。
「オイ勘介! 女勘介!」
 隠れ場所から身を現わしながら、こう我輩は声をかけてやった。
「ここにお前の情夫がいるんだ。何んて馬鹿な真似をやらかすんだ。……素裸体《すっぱだか》とは呆れたなあ。……珠太郎殿、お解りですか、あいつは女ではありませんよ。……オイ――勘介、女勘介、他の連中にも云ってやれ、まごまごみよし屋の寮なんかにいるなと! ……」

 同じ夜我輩は館林様を連れ出し、月夜を賞しながら彷徨《さまよ》った。
「誰かが先駆者にならなければいけない」
 館林様は我輩に説いた。
「貝を吹き旗差し物をかざし、進む者がなければいけないのだ。でなければいつまでも悪い浮世は悪い浮世のままで居縮《いすく》んでしまう」
「そこであなた様が先駆者となって、事を起こそうとなさいますので?」
「うん」と館林様は仰せられた。「まずそう云ってもいいだろう」

        四

「結構なことではございますが。……」我輩は故意《わざ》と皮肉に云った。「先に立って進むはよろしゅうございますが、さて背後《うしろ》を振り返って見て、従《つ》いて来る者のないのを見た時、寂しさ一層でございましょう」
「馬鹿な」と館林様は一笑した。「裏切られたらと云うのだろうが、わし[#「わし」に傍点]の部下にはそんな者はいない。裏切り者など一人もいない」
 振り返って見ると灯火の光が、まだ丸田屋の夏別荘の、大広間から射していた。浪人達は飲んでいるのである。一晩飲み明かすに相違ない。
 私達は丘を下りた。それから街道を左へ曲がり、さらに左へ空地を横切った。
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