置けぬ! 身分を宣《なの》らっしゃい!」
「黙れ!」
 と、不意に、覆面の一人が、この時鋭く叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]した。
「そういう手前こそ何者じゃ! 厳寒であろうと深夜であろうと、用事あればどこへ参ろうと随意《まま》じゃ! 他人《ひと》を咎めるに先立って自ら身分を宣《なの》らっしゃい!」
「む」と紋十郎は突き込まれたので、思わず言葉を詰まらせたが、「南町奉行配下の与力鹿間紋十郎と申す者、して方々のご身分は?」
「ははあ、不浄役人か」紋十郎の問いには答えず、侮ったように呟いたが、
「不浄役人のその方達に身分を明かすような我々でない。咎め立てせずと引き下がった方がかえってその方の身のためじゃ」
「黙れ!」と紋十郎は突っ刎ねた。「身分も宣らず行く先も云わぬとは、いよいよもって怪しい奴、仕儀によっては引っ縛《くく》り縄目の恥辱|蒙《こうむ》らすがよいか!」
 しかし相手はこう云われても驚きも恐れもしなかった。
「愚か者め」と憐れむように、覆面の武士は呟いたが、スーと駕籠脇へ寄り添った。「お聞きの通り不浄役人ども、駕籠先を止めましてござりますが、いかが取り計らい致しましょうや?」
 恭《うやうや》しい言葉付きで駕籠の中の主へこう指図を仰いだが、しばらくは何んの返辞もない。と、急に美しい気高い声で軽く笑うような気勢がしたが、
「先方《さき》の越度《おちど》にならぬよう、それとなく身分を明かすがよいわい」優しくこういう声がした。
「は、畏《かしこ》まりましてござります――これこれ鹿間紋十郎とやら、それでは身分を明かせて取らせる。この乗り物においで遊ばすは、将軍家お部屋お伝の方様に、お仕え申すお局《つぼね》様じゃぞ。しかもお犬様の源氏太郎様をお膝にお載せ在《おわ》しますのじゃ。これでも止めだて致す気か? 本丸大奥に対しては閣老といえども指差しならぬ。まして町奉行の配下連がお乗り物を抑えるとは無礼千万! これを表沙汰に致す時は容易ならぬ事が出来《しゅったい》致す。なれど特別の慈悲をもって今度《このたび》に限って忘れ取らせる。以後は十分心を致せ……六尺、お乗り物を急がせるよう!」
 声と一緒に粛々と、女乗り物は動き出した。白縮緬の覆面した十人の武士はそれを囲んでタッタッと歩いて行く。振り返ろうともしないのである。
 やがて乗り物も供人も夜の闇に埋もれて見えなくな
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