け廻って市長の窓まで行ったとは夢にも想像しませんでした。私はこのように思いましたので――市長もエチガライも探検家だ。ところが市長は財産家で選ばれて市長の職にもついた。そこへエチガライが訪ねて来ると市長は熱心に周旋して園長の職につけてやった。時々金銭の援助もする。普通の友人の情誼《じょうぎ》としては少しく親切に過ぎるようだ。あるいは二人の間には他人に云われない利害関係が……つまり市長が探検先で不正財宝の発掘でもしてそれで財産家になったのを、あのエチガライが知っていて、世間へ発表しない代りに動物園の園長という立派な位置を得たのではないか? こう思っているとまた夫人が、市長の書斎の紙屑を、エチガライの世話した新米の女中が、掃き出してしまったと云ったのですから、ハハアそれではその紙屑は、不正財宝と関係のある、地図か証書かに相違ない。それを女中に盗ませたのはそれを種にしてきっと市長を脅迫して金でも取ろうとしたのだろう――そうして例の怪獣は、動物園の犬か狼へ人工で燐光を纒わせたもので、それを市長の眼前へ出して、驚かせたというのも、やっぱり脅迫の意味からで、すなわち燐光の怪獣と、不正財宝の間には何らかの脈絡があるのだろう。それを市長が見た以上厭でも応でも脅迫者の自由にならなければならないという、奇怪な弱点であるのかも知れない。そして市長が怪獣を見るや、ROV《ロブ》、湖、埋もれた都会と絶叫したということだから、不正財宝を発掘したのは、支那新疆の羅布《ロブ》の沙漠の、羅布湖のほとりに相違ない。そして市長は尚叫んで、恐ろしい狛犬といったというから、燐光を纒った怪獣はあるいは羅布湖の岸の辺に住民の尊敬する神殿でもあって、そこの社頭の狛犬と深い関係でもあるのかも知れない。とにかく事件の張本は園長エチガライに相違ないとこう睨んだのでございますが、しかしまさか園長自身が怪獣であるとは思いませんでした」
「夫人の話を聞いただけでそこまで看破したところに君の天才が窺われるね」
ラシイヌは愉快そうに頷いたが、
「実はね、僕も、正直のところ、動物園で調べるまでは、やっぱり君と同じようにエチガライを疑っていたものさ。あいつが犯人に違いないとね。ところで僕は君の考えより、一つだけ余分に考えたってものさ。それは燐光の怪獣だが、これには必ず何らかの迷信がからまっているだろうと――そこで図書館へ飛んで行って、回鶻《ウイグル》辺に拡がっている土人の迷信を調べて見ると、あったあった大ありだ。あの辺にわずかに残っている、回鶻人の後裔達は――土耳古《トルコ》人との混血児《あいのこ》だが――燐光を纒った狛犬を彼らの神の本尊とし、狛犬を祭った神殿に対し、もしも無礼を加えたものは恐ろしい神罰を蒙《こう》むるだろうと、こう書いてあるその後へ、神罰の例が二つ三つ記してあったというものさ。神社の財宝を盗める者――狛犬の吠え声を耳に聞き、悪性の熱病にかかるべし。神殿の経文を盗めるもの――狛犬の姿を三度認め、三度目に命を失うべし云々……。
『それでは園長のエチガライは回鶻《ウイグル》人の後裔かな?』僕はその時疑ったものだ。とにかく僕は大急ぎで、動物園へ行ったものだ。真っ先に園長に逢って見ると、どうして立派な西班牙人だ。そして可哀そうに大病だ。しかも病気は神経病だ。脅迫観念に捉らわれている。それから女中に逢って見ると、一見|土耳古《トルコ》の女だけれど支那人のようなところもある。しかしどのみち混血児《あいのこ》だ。僕は何気なく遠くから金貨を一つ投げてやった。すると女中は両足を開けて、腰を曲げながら受け取った。で男だとわかったのさ。投げられた物を受ける時女なら両足を閉じるからね。それから後は君が昨夜、親しく見た通りというものだ。回鶻《ウイグル》人という奴は――彼らだけではないけれど、一体に無智の人間ほど不思議な力を持っているもので、彼奴らはつまり妖術者なのだ。催眠術かも知れないが、とにかく一種の法力で、人間の心や体付きまで獣類に一変させるのだよ。……見込まれたのが園長だ。園長は決して悪人ではない。一個の学究に過ぎないのさ。学者という者は馬鹿のようなものだ。融通が利かないで正直だ。そこへ彼奴らはつけ込んだのさ。その上園長は市長の友で市長の家の案内を知り抜いているから好都合だった訳さ。そこで彼奴らは法術で――いわば一種の呪縛《じゅばく》だね。園長の意志を縛ってしまって、彼奴らの意志を代わりに注ぎ込み、かねて用意をして置いた細工を凝らした獣の皮をスッポリ園長へ着せてしまって、そこでおっ[#「おっ」に傍点]放したというものだ。こうして市長を脅かしたのさ。経文を盗んだくらいだから、もちろん市長はその狛犬の迷信も知っていたに違いない。燐光を放す狛犬を見てハッと思ったのは当然さ。それに市長は心臓病だ。一度ならず二度三度、そんな狛犬を見たとすると、心臓麻痺を起こすかも知れない。そうしてほんとに死んだかも知れない……ほんとにあぶないところだったよ。それで彼奴らは昨夜を最後に、引き上げようとしていたものさ。行きがけの駄賃に猛獣を放し、憎いマドリッドの市民達を――つまり彼らは東洋人で、あらゆる欧羅巴《ヨーロッパ》の人間を人種的に憎んでいるのだからね――食い殺させようと計ったものさ。幸い僕が気がついてすぐ警視庁へ電話をかけ、警官をひそかに呼び寄せておいて、園丁達に云いふくめ、あらかじめ猛獣を檻の中から出しておいたからよかったものの、そうでなかったら市民達の円《まど》かな眠りは醒まされたろう」
「しかしどういう方便で回鶻《ウイグル》人のあの男が園長と知るようになったのでしょう?」
「そんなことどうだっていいじゃないか。そこが学究の馬鹿な点さ。実はね、ここへ来る前に病院へちょっと寄ったものさ。エチガライ氏にいき逢ってその点について訊いて見ると、その説明が面白い――それはある時エチガライ氏が町を散歩していると、若い女の乞食《こじき》が来て手の中を乞うたというものだ。と見ると女の容貌が微妙な雑種を呈していて氏の好奇心をそそったので、そのまま家へ連れて来て女中に使っているうちに、友人の市長に懇望され譲ってやったということだった」
「聞いてみれば何んでもありませんなあ」
レザールは思わず呟いた。
「どうです」とラシイヌは画家を見て、「あなたがもしも小説家ならよい小説が出来ますな」
「神秘でそして幽幻で大変面白い材料です。空想画として面白い。燐光を放って走って行く、獣のような人間を、一つ油《オイル》絵で描きましょうかな」
「獣人というような題にしてね」
ラシイヌは笑って云ったものである。
麗《うらら》かな春の午後である。
第二回 沙漠の古都
六
[#天から4字下げ](以下は支那青年張教仁の備忘録の抜萃である)
夕暮れは室へも襲って来た。卓上のクロッカスの鉢植えの花は、睡むそうに首を垂れ初《そ》めた。本棚の上に置かれてあるバスコダガマの青銅像《ブロンズ》の額の辺へも陰影がついた。隣室を劃《くぎ》った垂帳《たれまく》のふっくりとした襞の凹所《くぼみ》は紫水晶のそれのような微妙な色彩《いろあい》をつけ出した。
壁にかけられた油絵のけばけばしい金縁の光輝《ひかり》さえ、黄昏《たそがれ》時の室の中の、鼠紫の空気の中では毒々しく光ることは出来ないらしい。あちこちに置かれた玻璃《はり》の道具、錫の食器、青磁の瓶――燈火《ともしび》の点《つ》かない一刻を仮睡《うたたね》の夢でも結んでいるように皆ひそやかに静まっている。
月はもう空に懸かってはいるがしかし太陽は没していない。昼でもなければ夜でもない。夜と昼との溶け合った真に美しい一刻である。
薄暮時《たそがれどき》のこの一刻を、私はしばらく味わおうとして食堂の椅子へ腰かけていた。
耳を澄ませば窓の外の芭蕉や蘇鉄の茂みから孔雀の啼き声が聞こえて来る。名残の太陽を一杯に浴びてまだまだ戸外は明るいと見える。孔雀の啼き声と競うように高い鋭い金属性の鸚鵡《おうむ》の啼き声も聞こえて来る。窓外の壁板に纒っている冬薔薇の花が零《こぼ》すのであろう、嗅ぐ人の心を誘って遠い思い出へ運んで行くような甘い物憂いまた優しい花の香が開け放された窓を通して馨って来る。その花の香に誘われて私の心は卒然と三年前に振りすてた故国の我が家へ帰って行く。……
夕の鐘が鳴り出した。回教寺院《モスク》で鳴らす祈祷の鐘だ。冬といってもこの西班牙《スペイン》のマドリッドの暖さはどうだろう! 秋の初めと変りがない。雪は愚か雨さえもこの一ヵ月降ろうともしない。乾き切った十二月の空を通して鳴り渡る回教寺院《モスク》の鐘の音の音色の高いのは当然だ。しかし神々しい鐘の音ももう明日からは聞かれまい。明日はこの国ともおさらばだ。東洋と西洋とを一つに蒐《あつ》めて亜弗利加《アフリカ》の風土を取り入れたような、異国情調のきわめて深い世にも懐しい西班牙《スペイン》を立って明日は沙漠へ向かわねばならぬ。支那の西域|羅布《ロブ》の沙漠! そこへ私は出かけるのだ。沙漠は私を呼んでいる。その呼び声を聞く時は西班牙《スペイン》を懐かしむ心などは跡方もなく消えてしまう! 私は今日までまあどんなにその呼び声を待ちかねたろう……冬薔薇の匂いがまた匂う。三年前に立ち去った故国の我が家の面影がまたもわが眼に映って来る。私の思い出はその家へ今なつかしく帰って行く。
支那広東裳花街。そこに私の家がある。家といっても父も母も遠い昔に死に絶えてたった一人の妹だけが老婆の召使いと二人きりで寂しく暮らしているばかりだ。父母は革命の犠牲となって袁世凱《えんせいがい》の軍に殺された。そして家財は没収され家の大半は焼き払らわれてしまった。その時私は十五歳であった。そうして妹は十一であった。忠義な召使い夫婦の者に私達兄妹は救われた。焼け残った家へ立ち帰って父母の屍《なきがら》を葬ってからの私達兄妹の生活は昔の栄華に引き代えて世にも貧しいものであった。南支那切っての貿易商、南支那切っての名門の家――その家の形見の私達兄妹は世間の人達からは嘲笑され生き残った召使い達には逃げられて、私達兄妹を助けてくれた老召使い夫婦の者だけにかしずかれてわずかに生きていた。そのうち召使いの老人は弾傷が原因《もと》でこの世を去り私達二人の孤児《みなしご》は良人を失った老婆一人を手頼《たよ》りにしなければならなかった。私は実際その時まではただ可哀そうな名門の児――意気地のない貴公子に過ぎなかったがこの時慨然と震い立った。私は剣をとったのだ。革命党に参じたのだ。孫逸仙の旗下に従《つ》いたのである。
「黄蓮!」と私はある日のこと――慨然と立ったその日のこと妹に決心を打ち明けた。「私を自由にさせておくれ。私を戦《いくさ》に行かせておくれ。父母の仇敵は袁世凱だ。あいつを生かしては置かれない。あいつは民国の仇なのだ! あいつをこのまま放抛《うっちゃ》って置いたらきっと皇帝になるだろう。あんな匹夫を皇帝に戴いて私達は生きていられるかい。あいつは匹夫で姦賊なのだ! 曹操のような人間だ。なんの曹操にも当たらない。あいつはむしろ王※[#「くさかんむり/奔」、34−12]《おうもう》なのだ! 王※[#「くさかんむり/奔」、34−12]を皇帝に戴いた時の漢の天下はどうだったろう? 酷《ひど》い塗炭の苦しみに人民はどんなにもがいたかしれなかった。王※[#「くさかんむり/奔」、34−14]よりももっと袁世凱は匹夫なのだ。その上父母の仇敵だ。私はあいつを討つために革命軍に投じようと思う。どうぞ私を行かせておくれ。私が行ってしまったらお前はきっと寂しいだろう。お前の寂しさを思いやると私の決心は弛むけれど、国の大事には代えられない。たとえ戦に出て行っても時々家へ帰って来よう。そうしてお前を慰めてあげよう。私は決心したのだよ。私を自由にさせておくれ」
すると妹は微笑して――眼には涙を溜めてはいたが――私の言葉に頷いた。
「私に心配はいりません」妹は優しく云ったものである。「私は老婆《ばあや
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