とのない、不思議な食物――焼き肉が、私の手によって投げられた。しかもその肉はきわめて美味でその上制限されていて無尽蔵に食うことは出来ないのである。だからどうしても必然的に食物競争が行われる。そこが私の付け目であって、彼らが競争しているうちに荷車を前方へ進めるのであった。
焼き肉――競争――格闘――前進!
日光も透さぬ大森林を荷車はグングン進んで行った。そして朝が昼となりやがて夕暮れが近付く頃、大森林の涯《はて》まで来た。
この森林の果てへ来るのが私の唯一の目的であった。そして森林のこの果てはかつて前方《まえかた》ダンチョンと一緒に道に迷って来た事があった。そしてその時私は見た!
代赭《たいしゃ》色をした平原を! その代赭色の沙漠の中に一筋堤防のあったことを! そして堤防のその上に二頭の狛犬に守られて神の社があったのを!
四十三
そして私は再び同じ所に社《やしろ》んで沙漠を見ようとしているのだ。
しかし私が森林を出て眼を前方に走らせた時、沙漠も堤も狛犬も悉く水に埋ずもれてわずかに社の屋根ばかりが水を抜け出て輝いているのがハッキリ両眼に焼き付いた。まことにそこには沙漠の代りに湖水が漲っているのであった。
しかし私は驚かない、むしろ予期していたことである。
私は荷車へ飛び上がってあるだけの焼き肉をひっ[#「ひっ」に傍点]掴み四方八方へ投げ散らした。そして人猿の叫び声や格闘の響きを後にして筏《いかだ》を湖水へ浮かべたが、二挺の櫂を手に持ってヒラリと筏へ躍り上がり櫂をあやつって辷《すべ》り出た。
筏はずんずん進んで行く。人猿どもは岸に並んで物凄い叫びを上げながら拳を揮《ふる》って打つ真似《まね》をするが、間を大水が隔てているのでどうすることも出来ないらしい。筏はずんずん水を切って社頭の方へ進んで行く。私の胸は期待に充たされ心臓が劇しく鼓動する。
夕陽、微風、波の囁き――湖水の上は涼しくてどのように漕いでも疲労《つか》れない。
筏は社に近寄った。
湖上に出ている屋根の側まで筏が流れて来た時に、そこに一隻丸木舟が纜《もや》ってあるのに気が付いた。それに不思議にも社の屋根に人間が一人はいれるくらいの四角な穴が開いていて垂直に梯子がかかっている。
私はこれを眺めた刹那《せつな》、既に秘密の十分の九まで解決したような気持ちがした。私に何んの躊躇《ちゅうちょ》があろう! 独木舟《まるきぶね》の船尾《とも》へ筏を纜《つな》ぎそれから屋根へ這い上がった。
それから梯子を下ったのである。
下へ下るに従って射し込む日光が薄くなり全く暗黒になってからも尚下へ下りなければならなかった。私はこっそり心の中でおおよその間数を数えながら下へ下へと下りて行った。
「十間、二十間、三十間……」
と、ここまで数えて来た時に梯子は既に尽きていた。それとも知らず私の足は次の桟木を踏もうとしてハッと空間に足を辷らせ真っ逆様に墜落した。
そして気絶をしたのであった。
私の意識が次第次第に恢復するように思われた。一人の老人が私の前に蝋燭《ろうそく》を持って立っている――しかし恐らく幻覚であろう――その老人を囲繞して宝石が無数に輝いている。黄金の兜、黄金の鎧、蝋燭の光に照らされて天上の虹が落ちたかのように燦々奕々《さんさんえきえき》と光を放し香の匂いさえ漂っている。
「何んという美しい幻覚であろう」
私は半分正気付いてこう口の中で呟いた。
「なんという立派な老人であろう――岩窟に住んでいる動物学者のあの老人にそっくりだ……幻覚よ、永く消えないでくれ」
私はまたも呟きながら体を起こそうともがくのであった。
気高い老人が重々しく髯だらけの口を動かした。
「気が付いたかな、張教仁!」
私は辛うじて返辞をした。
「あなたはどなたでございます?」
「わし[#「わし」に傍点]は岩窟の老人じゃ」
「動物学者のご老人?」
「そうだ。そうして人猿国の国王と云ってもよいだろう」
私は四辺を見廻した。何も彼も尊げに光っている向こうの隅には黄金の板、櫃《ひつ》の上には波斯絨毯《ペルシャじゅうたん》。黄金で全身をちりばめられた等身大の仏の像はむきだしに壁に立てかけてある。その仏像の左右の眼には金剛石が嵌められてあって蝋燭の光に反射して菫色《すみれいろ》の光を澪《こぼ》している。
「ここはいったいどこなのです?」
「ここは水底の地下室じゃ!」
「宝物庫でございますな?」
「いかにもさようじゃ。羅布《ロブ》人のな」
「え、羅布《ロブ》人でございますって!」
「回鶻《ウイグル》人と云ってもよい」
「回鶻《ウイグル》人でございますって? ――それでは私はようやくのことで目的をとげたというものだ! 羅布《ロブ》人の宝庫! 羅布《ロブ》人の宝庫!」
「しかしお前が発見《みつ》けるより先に私がいち[#「いち」に傍点]早く見付けていた。危険の多い湖底から沙漠の地下室へ人猿と一緒に宝を移したのもこのわしじゃ」
「それでは渦巻を起こしたのも湖水の水を涸らしたのも皆あなたでございますか?」
老人は黙って微笑した。
「それにしてもあなたはこの宝庫を何故世の中へ発表して用に立てないのでございます?」
「ただわし[#「わし」に傍点]がそれを欲しないからだ。地下には四十の部屋があってあらゆる宝石貴金属が一杯そこに詰まっている。何億あるか何十億あるか、現代の貨幣に換算したらそれこそ大陸の二つや三つは優に買うことが出来るだろう……」
四十四
老人は静かに云いつづけた。
「凄まじいほどの巨財なのじゃ。ところで今日の世界と云えば物質一方の世界ではないか。そういう世界へこれだけの巨財を仮りに提供したとなったら、その財宝の所有争いで国々で戦争さえするであろう。それを私は恐れるのじゃ」
老人はこう云って沈黙した。私には老人のその言葉がいかにも真理に聞こえたのでそれからは何んにも云わなかった。
老人は自分で蝋燭を取って私の前を歩きながら、地下に造られた四十の部屋をいちいち私に見物させた。
お伽《とぎ》の世界にでもあるような幽幻神秘の宝物庫が、私の眼前に展開されて、見て行く私の眼を奪い計り知られぬその価値に私は思わず溜息をした。
私は発見したのである! 探し廻っていたその宝庫を! 数千年前支那の西域|羅布《ロブ》の沙漠に国を建てた回鶻《ウイグル》人の一大国家が、基督《キリスト》教徒に征《せ》められて国家の滅びるその際に南方椰子樹の島に隠した計量を絶した巨億の財を私は今こそ発見《みつ》けたのだ!
老人と一緒に船に乗って私は森林へ帰って来た。そして人猿に守られて老人の岩窟へはいったのである。
こうして再び老人と一緒に岩窟《いわや》で生活するようになった。
老人が彼らに命じたのでもあろう、それ以来私は人猿達に監視されることがなくなった。私は文字通り森林の中を自由自在に歩くことが出来て、老人をこの国の国王とすれば私は副王の位置にあった。
私の生活は安全であり前途は希望《のぞみ》に充ちていた。と云うのは老人が口癖のようにこのように私に語るからであった。
「わしは大変年老いている。わしは間もなく死ぬだろう。そうしたら君こそここの王じゃ。ここの国王に成ったからには、あの水底の地下室の一切の財宝の所有者じゃ! 君の随意にすることが出来る」
しかし老人は容易のことではこの世を去りそうにも見えなかった。钁鑠《かくしゃく》として壮者を凌《しの》ぎ森林などを駈け歩いても人猿などより敏捷であった。私も老人の真似をしてよく森林を駈け歩き彼らに負けまいと努力した。
こうして半年が経過した。そして一年が過ぎ去った。
ある日老人が私を呼んで、種々の鍵を手渡してくれた。そしてどうして一日のうちに大水を自由に動かし得るかそういうことまで話してくれた。それは老人の科学思想がいかに発達しているかを証明するに足るところの霊妙を極わめた装置であって、それを私が知った時にはこの老人を敬う念が以前《まえ》よりは一層加わっていた。
老人は私の手を握った。
「君は明日からここの王じゃ。彼らを愛してやりたまえ。私は少しく休息しよう」
こう云って優しく目を閉じた。その日が暮れて夜となり月が天上に輝いている時老人は安らかに死んで行った。
翌日私達は老人のために新らしい柩《ひつぎ》を拵えた。夜になるのを待ち構えて小丘の上へ葬った。いつも賑やかな人猿達も今宵に限って静粛であった。空には月が照っている。森林では夜鳥が鳴いている。人猿どもは墓標を囲んで夜が更けるまで蠢《うごめ》いている。
墓場の前で人猿達に、私はこのように宣言した。
「老人に代わって張教仁がこの森林の王となる! それはお前達の誰よりも私が一番利口だからだ!」
人猿どもは首を垂れて私の言葉を傾聴した。私はそこで丘を下りた。人猿達は私を守って虔《つつま》しやかに歩いて行く。
こうして私はこの日を初めに完全にこの国の王となった。人猿どもはこれまで通りに森林の中で楽しげに暮らして老人のことは忘れたらしい。私の言葉の命ずるままに彼らは怡々《いい》として従った。
私は新らしく授けられた自分の力を試みようと、老人の教えに従って一つの鍵を使用した。するとその時まで乾いていた湖水の跡の大磐石が音もなく静かに刎ね上がり、その後へ出来た大穴から沸々と水が盛り上がった。見る見るうちに漲り渡り再び洋々たる湖水《みずうみ》の態《さま》が私達の眼前に拡がっていた。
人猿たちはそれを見ると森林の中から走り出て、湖岸に立って奇怪至極の彼らのダンスをやり出した。
ここに再び人猿国には昔ながらの平和が帰り、巨財を貯えた四十の地下室は沙漠の砂丘を頭に戴き肩のほとりに秘密の入り口――すなわち狛犬《こまいぬ》に守られたところの不思議な社《やしろ》を保ったまま落ちる夕陽、昇る朝陽に燦《まばゆ》くキラキラと輝きながら永遠の神秘を約束して私の支配下に眠っている。
底本:「沙漠の古都」国枝史郎伝奇文庫26、講談社
1976(昭和51)年7月12日第1刷発行
初出:「新趣味」博文館
1923(大正12)年3月〜10月
※「探検」と「探険」の混在は底本の通りです。
※「烏魯木斎《ウルマチ》」「庫魯克格《クルツクタツク》」は、それぞれ「烏魯木斉《ウルマチ》」「庫魯克塔格《クルクタク》」が正しい形であると思われますが、底本の通りとしました。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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