っている西域の地図はヘジン博士の著わした実地踏査の写生地図《スケッチマップ》で他に類例のないものだがそれを持ってるというからには料理人《コック》は確かに怪しいね。僕らの地図を模写したかもしくは瑞典《スエーデン》まで出かけて行ってヘジン博士に邂逅《いきあ》って手ずから地図を貰ったか、どっちみち尋常じゃなさそうだね……僕ら一行の行動は――つまり僕らが組織的に人跡未踏の羅布《ロブ》の沙漠を徹底的に探るというこの著しい行動は、『第二「獣人」の事件』と一緒に世界的に評判されていて秘密を包んだ水晶の球のいかに尊いかということも世間の人は知っている。そして尊いその球を僕らが守護していることも世間の人は知っている。だから僕らは僕らの球を世間の悪い人間どもに盗まれまいと用心して、毎晩持ち主を代えているほどだ……こうまで用心をするというのもただ盗人が恐ろしいからさ。怪しい人間は遠慮なくドシドシ遠ざけるがいいだろう」
「明日は早朝五時頃にオムスクへ汽車がつきますからそこで解雇を云い渡しましょう」
「よかろう」
とラシイヌは頷いた。そうして改めて土耳古《トルコ》美人を胡散《うさん》くさそうに眺めた後、レザールにそっと囁いた。しかしレザールにはその美人が怪しい曲者とは見えなかった。そんなことよりも張コックが先刻持っていた西域の地図を、明日解雇を云い渡してからどうしたら取り上げることが出来るかとそればかりを懸命に考えていた。
……しかし実際には、張料理人を解雇することは出来なかった。解雇することが出来ないばかりか彼らは彼に助けられた。と云うのはオムスクへ着かない前、その夜のちょうど十二時頃に、車中に恐ろしい事件が起こって彼らを全滅させようとしたのを張がいちはやく助けたのであった。
事件というのはこうである――
夜が更けるに従って天候は益※[#二の字点、1−2−22]悪くなって怒濤《おおなみ》のような音を立てて吹雪が車窓へ吹きつけて来た。車内の乗客は玻璃窓を閉じ鎧戸までも堅く下ろして、スチームの暖気を喜びながら賑やかにお喋舌《しゃべ》りをつづけていた。するとそのうち人々は次第に談話《はなし》を途切らせた。そうして皆睡気を感じて寝台へ行く人が多くなった。ラシイヌも睡気を感じたので立ち上がって寝台へ行こうとした。不思議とどうにも体が弛《だる》い。「変だぞ」と彼は呟きながら室の内をいそいで見廻した。マハラヤナ博士もレザールもダンチョンさえも昏々と壁板へ頭をもたせかけて人心地もなく眠っている。よく見ると乗客全部のものが皆他愛なく眠っている。たしかに眠っているらしい。しかし誰も彼もおかしなことにはその眼を大きく明けている。それでは眼醒めているのだろうか? それにしても彼らは身動きをしない。その時ラシイヌはふとさっきから、東洋でくゆらす抹香《まっこう》のような、死を想わせるような、「物の匂い」が、閉じこめた車内を一杯にして、匂っているのに気がついた。彼はある事を直感した。で彼は危難から遁《の》がれようと急いで窓へ手をかけたが、もうその時は遅かった。見る見る身内の精力が消え、四肢が棒のように硬直し眼だけ大きく見開らいたまま腰掛けの上へ転がった。しかし意識は明瞭であった。あらゆるものがよく見えた。乗客も手荷物も窓|硝子《ガラス》も。しかし一本の指さえも動かすことは出来なかった。尚、物音もよく聞こえた。列車の突進する轍《わだち》の音、窓に吹きつける雪の音……ラシイヌはその時室の隅で女の笑う声を耳にした。笑い声の起こった室の隅を彼は辛うじて眺めて見た。口と鼻とへマスクを掛けた一人の女が立っている。赤い土耳古《トルコ》帽に黄色い手袋、狐の毛皮の外套を着て紫の靴を穿いている。そして右手に青銅で造った日本の香爐を捧げている。大変小さい香爐ではあるがそこから立ち昇る墨のような煙りは強い匂いを持っていた。女は室内を見廻した。それから香爐を腰掛けへ置いてツカツカとこっちへ近寄って来た。少しも躊躇することなしに彼女はレザールへ走り寄った。同じようにちっとも躊躇せずに彼女はレザールの上着を剥いだ。それからチョッキをまた剥いだ。そして下着を引き破り胴巻に包んだ鉄の手箱をそこからズルズルと引き出した。彼女は胴巻を床へ棄て手箱を眼の前へ持って来てしばらく仔細に見ていたがようやく納得したと見えて外套の内隠《うちかく》しへしっかりと蔵《しま》いホッと初めて吐息をしてそのまま隣室の扉へ行ってドアの取手《とって》に手をかけた。しかし女が捻らない先に鉄の取手がガチャリと鳴って扉が向側《むこう》から押し開らいた。女は二、三歩よろめいた。その鼻先へ突き出されたものは自動拳銃の銃口《つつさき》である。女はまたもよろめいた。すると扉口から一人の男――料理人姿の東洋人――張教仁が現われた。
「手をお上げなさい
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