たが、
「私がお尋ねのレザールで――これは友人でございます。きわめて気の置けない友人で……ええと、ところで市長の奥様、どういうご用件でございましょうな?」
 きわめてなれなれしく云ったものである。
「オヤまあ私をご存知で?」
 市長夫人は手を差し出しレザールにそれを握らせながら、
「いかにも私はおっしゃる通り市長の家内でございます」といくらか驚いた様子である。
「マドリッド市民は誰にしましても自分の町の首脳者の――つまり市長でございますね――内助者たるところの奥様を知りたいと思わないものはございません」
 恭※[#二の字点、1−2−22]しくレザールは微笑した。
「でも」と夫人は首を振り、「体がひどく弱いものですから、こちらへずっと参りましてからも、毎日たれ込めておりまして、それこそ町へなどは一度も出ず、重大な社交にさえ顔を出しませんのに……」
「おっしゃる通り奥様はあの米国の大統領のハージング夫人とそっくりで、社交嫌いだとか申しますことで――けれどたった一度だけ招待会には出られました筈で」
「そうそうたった一度だけ――主人が印度《インド》から当地へ参り市長の職に着きました時、きわめて少数の知人でしたが、お招きしたことがございました。きっとあの時でございましょう?」
「さよう、あの時でございます。あの時私は舞踏室で、奥様をお見かけいたしました」
「それは少し変じゃございませんか――あの時およびした人達の中に、あなたのお名前はなかった筈で」
「レザールという名はございませんでした。しかしマドリッド日刊新聞の社長の名前はありました筈で」
 夫人はしばらく考えてから、
「ポンピアド様という名前の六十過ぎた立派な方?」
「獅子のような頬髯を生やした人で」
「たしかにお招き致しました」
「それが私でございます」
「まあ」
 と夫人は呆れ返り、
「でも、お見かけ申しましたところ、あなたはやっと三十ぐらい、それだのに一方ポンピアド様は……」
「ですから奥様尚一層化け易いのでございますよ。三十男のこの私がやっぱり他の三十男に化けるということは困難ですが、六十の老人に化けることはいと[#「いと」に傍点]易いことでございます……もしもご不審におぼしめすなら、五分間ご猶予を頂いて、化け直してお目にかけましょうか」愛想よく軽快に云い放した。
 しかし夫人は手を振って、淋しく美しく笑いながら、「いいえそれには及びません。なるほどそうかも知れません。名誉の探偵でいらっしゃいますもの……それにしても本物のポンピアド様は、どうしていらっしゃらなかったのでございましょう?」
「たしか旅行中でございました」
「それではあなたはポンピアド様に断わらずにおやりなすったので?」軽く夫人は非難した。
「毎々のことでございますよ」レザールは愉快そうに微笑した。
「そんな権利がございまして?」と夫人の声はやや鋭い。
「さよう」とレザールは真面目になり、「私と、それにもう一人、私にとっては大先輩で、かつまた非常に仲のよい――奥様もあるいは名前ぐらいはご存知でいらっしゃるかもしれませんが――ラシイヌという探偵だけには、そういう権利がございますので。どうしてと申しますに我々二人は、政府の機密に参加したり、皇室のご依頼に応じたり、これまで数度その方面で働いたことがございますので、政府は我々二人の者へ特権を与えてくれました」
 すると夫人は頷いて、
「そうでございましょうね、よくわかりました。――ただ今お話しのラシイヌ様、知っているどころではございません。ただ今お逢いして参りましたので」
「ああそれじゃもうお逢いでしたか」
「そうしまするとラシイヌ大探偵が私にこのように申しました――レザールにもご依頼なさるようにって」
 レザールは苦笑を浮かべたが、ダンチョンの方を振り返り、
「ラシイヌが僕を験《ため》すらしいね」
 それから夫人の方へ頭を下げて、「それではどうぞお話しを――ラシイヌへおっしゃったと同じように、私にもお話しを願いたいもので」
 椅子に寄ったまましばらくじっと市長夫人は黙っていた。それから静かに話し出した。

        二

「……どこからお話し致しましょう? やっぱりずっと最初からお話しした方がよさそうです――先月十日の真夜中でした。午前二時頃ででもございましたでしょうか、突然|良人《おっと》の居間の方から呻くような声が聞こえましたので、しばらく聞き澄ましておりましたところ、それっきり物音が致しません。きっと夢でも見たのだろうと、そのまま眠ろうと致しますと、庭の方へ向いた室の窓が不意に明るくなりましたので吃驚《びっくり》して起きようと致しました。さようでございますね、その光は銀のような光でございました――ところが窓のその光も次の瞬間には消えましたので、起きかかっ
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