は私は恩を受けている。殊にラシイヌ探偵には生命をさえ助けられている。袁更生達の阿片窟に紅玉《エルビー》を尋ねて迷い入った時、私に逃げ路を教えたのは他ならぬラシイヌ大探偵だ。ラシイヌ探偵の仲間の一人のダンチョン画家が、土人のために今や生命を取られようとしている。それを目前に見ている以上義理としてでも救わなければならない。しかしどうして助けよう? どうしたら救うことが出来るだろう?」
 私は立ったまま考え込んだ。土人乙女はそれを見ると、踊っていた手を急ぎ止めて手真似《てまね》で私へ話しかけた。
「心配することは何んにもない。あなたは私を有尾人猿から救ってくれた恩人ですから、私達部落の人達はあなたを歓迎するでしょう」
 彼女が熱心に話しかける手真似の意味はこうであった。しかし私は動かない。やっぱりじっと考えている。すると彼女はまた手真似でこのように私へ話しかけた。
「あなたが不安に思うなら私が先に部落へ行ってあなたのことを話しましょう」
 それでも私は黙っていた。
 乙女は小首を傾けて私の顔を見守ったが、急に体を翻えして部落の方へ走っていった。私がここにいることを部落の人達に告げるためであろう。
 彼女の姿が綿の木の花でしばらく蔽われて見えなくなった時、私は咄嗟《とっさ》に決心してもと来た方へ走り出した。袁更生の一団が土人部落にいる以上は捕まったが最後私の生命《いのち》は失われるに決まっている。それが恐ろしく思われたからだ。
 しかし私の逃げた時は既に機会を失っていた。部落の方から追っかけて来る土人達の叫び声が刻一刻背後の方から聞こえて来る。私は方角を取り違えてただ無茶苦茶に逃げ廻った。突然行手の藪地《ジャングル》の中から支那語の叫び声が聞こえて来た。袁更生の一味の者が先廻りをしていたに相違ない。背後からは土人が追っかけて来る。彼らの持っている槍の穂先が月光にキラキラ光って見え鳥の羽根を飾った兜の峰が雑木の上から覗いて見える。
 私は進退きわまった。それからの私というものは無茶というよりも夢中であった。腰の拳銃を抜き出して土人軍に向かって連発した。確かに二、三人射殺したらしい。驚いて逃げ出す土人を見捨てて藪の中へ兎のように潜ぐり込んだ。どこをどのように歩いたものか、ほのぼのと四辺が明るいのでハッと驚いて前方を見ると、何んということだ、眼の前に土人部落の例の広場が篝《ひ》に照らされて拡がっている。そして不幸なダンチョン氏は杭にやっぱり縛られていたが四方には土人の姿もない。
 私は義侠心に揮い立った。
「ダンチョン氏を助けるのはこの機会だ!」
 そこで私は雑草を分けて広場の方へ近寄って行った。しかしその時私の心を他へ振り向けるものがあった。……私の横手の遙か向こうの木立の蔭から女の声が、夢にも忘れない恋人の、紅玉《エルビー》によく似た笑い声がさも楽しそうに聞こえて来た。それに続いて獣の鳴き声がこれも楽しそうに聞こえて来た。
 私は雷にでも打たれたように今いる位置に突っ立ったままその笑い声を聞き澄ました。繰り返し繰り返し女の声と獣の声とは聞こえて来る。どうやら女は獣を相手に戯れてでもいるらしい。
 私は四方へ注意を向け踊る心臓をしっかり抑えて声のする方へ忍び寄った。

        三十二

 明るい満月に照らされて、土人の小屋の裏庭の様子が手に取るように眺められた。霜の降ったように白く見える庭の地面に銀毛を冠った巨大な猩々《しょうじょう》が空に向かって河獺《かわうそ》のように飛んでいる。その猩々をあやすように、両手を軽く打ち合わせているのは白衣を纒った少女である。振り仰ぐ顔に月光が射して輪廓があざやかに浮かび出た。まごう方なき紅玉《エルビー》である!
 前後の事情をも打ち忘れて私は前へ走り出た。
「紅玉《エルビー》!」
 と私は絶叫して彼女を両手で抱こうとした。すると猩々が走って来て二人の仲を遮《さえぎ》った。鈴のような眼で私を睨み紅玉《エルビー》を背後へ庇《かば》おうとする。
「どなた!」
 と紅玉《エルビー》は、聞くも慕わしい昔通りの声で訊いた。
「どなたって俺に訊くのかい。張教仁だ! 張教仁だ!」
 しかし紅玉《エルビー》は感動もせずに、私の顔を見守ったが、
「張教仁さんて! どなたでしょうね? ……そうそうやっと思い出しました。そういうお方がありましたわ、ずっとずっと昔にね……羅布《ロブ》の沙漠で逢いましたっけ、芍薬《しゃくやく》の花の咲く頃まであなたと一緒におりましたわ……そして桐の花の咲く頃にあなたの所から逃げましたわ。けれどとうとう発見《みつか》って好きな好きな阿片窟からあなたの所へ連れ帰られてどんなに悲しく思ったでしょう……それからまたも逃げました。そうよ、あなたの所からよ……私には恋人がありますのよ。可愛い可愛い恋人
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