…箱から現われ出た大猩々《おおしょうじょう》! 私はそのまま気絶して再び呼吸《いき》を吹き返した時には四辺は寂然《しん》と静まり返り、一人さっきの欧羅巴《ヨーロッパ》人が死んだように倒れているばかりだ。私の負傷は軽かったので疲労《つか》れた足を引きずり引きずり、汽船の料理人《コック》部屋へはいり込んで深い眠りに墜ちてしまった。
航海は大変無事であった。台湾海峡も事なく通りやがて香港《ホンコン》へ到着した。南支那海を南東に向けて再び航海は続けられた。フィリッピン群島を左に見て英領ボルネオの首府サンダカンへ次第次第に近寄って行った。航海はこれまでは無事であった。しかし偶※[#二の字点、1−2−22]《たまたま》ラブアン島辺へ正午頃船が差しかかった時突然大難が起こったのであった。すなわち、海賊――袁更生の船が汽船を沈没させたのであった。
私は海へ飛び込んだ。鮫《さめ》や悪魚の住んでいる海へ。それでも私は喰われもせずしばらくの間泳いでいた。その時|短艇《ボート》がどこからともなく私の側へ漂って来た。疲労《つか》れた手足を働かせて私はボートへ這い上がった。人影はなくて肉の砕片が真紅に船底を濡らしている。そしてそこには一本の櫂と一挺の短銃と若干《すこしばかり》の弾丸と万年筆と手帳とが血に穢れて散らばっている。恐らく誰かが短艇《これ》に乗って、賊から遁がれようとしたのだろう。しかるに不幸にも賊に見つかって鉄砲で撃たれて海へ落ちたのだろう。――死んでその人は不幸ではあるがおかげでこっちは大助りだ! こう思いながら四辺《あたり》を見ると既に賊船の姿はなくて今まで乗って来た汽船の影さえどこの波間にも見えなかった。私はホッと安堵してそれからボートを漕ぎ出した。間もなく日が暮れて夜が来た。激しい空腹と疲労とは私を昏睡《ねむり》に引っ張り込む。今眠っては危険である! 死に誘惑される眠りであると、心の中では思いながらいつか眠りに捕えられた。
……幾時間私は眠ったろう……
何者か私の全身を摩擦している者がある。嫋《しなや》かではあるが粗《あら》い手で私の全身《からだじゅう》を擦《さす》っている。その快い触覚が疲労と苦痛とで麻痺している私の肉体《からだ》を労《いた》わってくれる。私の意識は次第次第に恢復するように思われた。どうかして一目眼を開こう、眼を開いて私を労わってくれる親切な人を見ようとしても重い眼瞼《まぶた》は益※[#二の字点、1−2−22]重くどうすることも出来なかった。それでも私は努力した。そしてようやく薄目を開けてあたりの様子を見ようとした。するとその時私の体を撫で廻していた手が止まった。いくらあたりを見廻してもそれらしい人の姿もない。ただここに一つ不思議なことには日光から私を防ぐため棕櫚《しゅろ》で拵えた大きな笠が私の体を蔽うている。そして砂地に足跡がある。跣足《はだし》の人間の足跡である。その足跡は海岸の背後《うしろ》の大森林まで続いている。岸辺を見ると繋ぎ止められたボートが水に浮かんでいて舟の中には元通り短銃《ピストル》や万年筆が置いてある。私はそこまで這って行ってそれらの物を取って来たが、もう這うことも出来なくなった。私は腹を砂の上へ丸太のように転ってそのまま昏々と眠りに入った。そうして再び目覚めた時には私の側に椰子の果実《このみ》と呑み水とが一椀置いてあった。果実《このみ》を食って水を飲むと私はようやく元気づいた。棕櫚笠を頭に戴いて短銃と弾丸帯を腰に着けて手帳と万年筆とは下衣に隠して林の方へはいって行った。何より先に蘇生させてくれた恩人の姿を見つけようと足跡を手頼《たよ》りに進んで行ったが、林へはいると雑草に蔽われ見出すことが出来なかった。雑草は丈《たけ》延びて身丈《せい》よりも高く林の中は夜のように暗い。喬木はすくすくと空に延し上がり葉と葉は厚く重なり合い数町あるいは数里に渡って緑の天蓋を造っている。太古のままの静けさが森林の中に巣食っている。鳥も啼かず人影もなく風さえ葉の壁に遮《さえぎ》られて林の中までは吹いて来ない。
自然の厳粛に打ち拉《ひし》がれて私は茫然と立ち尽くした。いったいどうしたらいいのだろう? これから俺はどうしよう? こう思って来て自分ながら恐ろしい運命に戦慄した。
二十七
どっちへ行こうかと森林の中を途方に暮れて見廻した時、またも奇蹟が発現《あら》われた。こっちへ来いというように丈なす草が苅り取られ小径が出来ているではないか!
「足跡の主に相違ない」
私はすぐにこう思った。それで少しも躊躇せずに小径を奥へ歩いて行った。私は幾時間歩いたろう? 体が綿のように疲労《つか》れて来た。私は一歩も進めなくなった。ここでこのまま倒れたなら猛獣毒蛇の恐ろしい牙がすぐにも噛みつくと思いながらどう
前へ
次へ
全60ページ中41ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング