ンパン》が浮いていて、燈火《あかり》も点《つ》けてない船の中で、二、三十の人影がボンヤリとうごめいているのが眼に付いた。ラシイヌの心臓は動悸を打ち、その眼は急に見開らかれた。彼は楊柳の蔭へこっそり姿をひそませて、じっと様子を窺った。船中の唄声はやがて絶えて、また四辺は寂静《ひっそり》となった。すると今度は反対の岸――二百間あまりもかけ隔てた対岸《むこうぎし》の方から幽《かす》かに幽かに同じ唄声が水を渡ってラシイヌの耳へまで聞こえて来た。やがてその詩も途絶えたが、詩の途絶えた方角から、青色の光がただ一点、闇の中へポッツリ浮かび出た。あたかも人魂が迷うようにその青色の|燈の灯《ともしび》は、右に左に静かに動くとまた闇の中へ消えて行った。すると、今度は、彼の足もとの、支那船《サンパン》の中から同じような青色の燈火《あかり》が浮かび出たが、空中で五、六回揺れた後でそのままフッと消え去った。
「フフン、何かの合図だな」
 楊柳の蔭でラシイヌは思わずこのように呟いて尚もそのまま彳《たたず》んで、支那船《サンパン》の様子を窺った。
 すると支那船は動くともなく、幽かに船体を動かした。闇の河面《かわも》が静かに動いて、一町あまり隔たっている小さい桟橋の方角へ、人眼を忍ぶように辷って行く。
 そうして桟橋へ着いた時、船の中にいた支那人どもは、一人一人桟橋へよじ登った。二十人あまりの人影が、墨のように橋の上へ塊《かた》まった時、一個《ひとつ》の大きな黒い箱が船の中から持ち上げられた。桟橋の上の人影が、揃って前へ手を突き出し、その黒い箱を受け取った。するとまたもや船の中から、ゾロゾロ人影が現われて桟橋の上へよじ登ったが、一個の箱を肩に支え、その箱をみんなで取り巻いて、神前へ捧げる御輿《みこし》のように、敬虔《けいけん》な態度で歩いて行く。
「さあどうもこいつは解らない」
 ラシイヌは胸へ腕を組んで、渋面を作って呟いた。それから楊柳の蔭を出て、御輿の後を追いかけたが、思い出して腕時計を眺めると、彼は追うのを中止した。
 もう十分で八時である!
 彼は御輿と腕時計とを代わる代わるに見比べてしばらくじっと考えていたが、決心がついたというように、グルリと体の方向を変え、大速力で走り出した。
 公園へ向かって走るのである。
 黄浦河とそして呉松《ロウソン》江とが、相合流する一角に、居留地の公園は立っていた。北と東が水に臨み、西が英租界に向いている。水に向かった園内の芝の丘に、音楽堂は立っていた。眩《くらめ》くばかりの電燈が、楽堂の周囲《まわり》に照り渡り、そこへ集まった聴衆のほくろさえ鮮かに見えるほどである。

        十九

 もう已《とう》に音楽は始まっていた。それは伊太利《イタリア》の音楽隊で、モールをちりばめた服装から指揮者《コンダクター》の風姿《スタイル》から、かなり怪しげな一団であったが、「伊太利人」という吹聴のためか、聴衆《ききて》は黒山のように集まっていた。聴衆は全部|欧羅巴《ヨーロッパ》人で支那人は一人もいなかった。それは公園の入口に「華人不可入」と書いた建札が、厳めしく立っているからだ。
 ラシイヌは聴衆の間に交って、彼の鋭い観察眼であたりを静かに見廻した。「描かざる画家」ダンチョンを発見《みつけ》出そうためである。ダンチョンの姿はラシイヌの左手、十間ほどの彼方にいた。新しい帽子に白のネクタイ、思い切ってめかしたその姿は、ラシイヌには滑稽に思われた。性来どこかにおかしみを持った田舎者じみたダンチョンが、神経質な眼付きをして、音楽などはうわの空で、例の美人を発見《みつ》けようと、四辺をキョロキョロ見廻す様子は、それは全く珍であった。
 ラシイヌはおかしさを堪えながら、ダンチョンの様子を見守った。
 その時、きょとついたダンチョンの眼がある一所《ひとところ》に据わったので、ラシイヌは「オヤ」と呟きながら、その方角へ眼をやった。はたしてそこには婦人がいた。すなわち楽堂の柱に寄って、黒い面紗《ヴェール》で顔を隠した水色の服の欧州美人が、スラリと彳《たたず》んでいるのであった。
「おや」とラシイヌは婦人を見ると、またも思わず呟いた。というのは面紗《ヴェール》のその女が確かに見覚えがあるからであった。
「ハテナ、いったいあの女とどこで知人《しりあい》になったろう?」
 ラシイヌは一瞬間心の中で記憶の糸を手繰《たぐ》ったけれど思い出すことが出来なかった。
 その間も楽堂の舞台では、拙《まず》い音楽が続けられていた。そして聴衆《ききて》は根気よく静かに耳を傾けている。
 しめやかな、静かな、いと平和な、異国情緒の光景である。
 ラシイヌは尚も眼をそばだて、面紗の女とダンチョンの様子を代わる代わるに眺めやった。そして怪しい素振りでもあったら、追っ駈
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