墨染めの法衣《ころも》に黒の頭巾をかむった、気高いような尼僧《あま》様が数珠をつまぐりながら、しずかに歩いておるのでした。
「尼僧《あま》様」とわたしは声をかけました。「突然失礼ではございますが、あれに見えます土塀のかかったお屋敷は、どなた様のお屋敷でございましょうか?」
すると尼僧様はわたしを見、それから屋敷の方へ眼をやりましたが、
「あああのお屋敷でございますか、あれは世間普通のお方とは、交際《つきあい》もしなければ交際《つきあ》ってもくれない、特別の人のお屋敷なのですよ」
と、大変清らかな沈着なお声で、そうお答えくださいました。
「世間普通のお方と交際《つきあ》わない、特別のお方とおっしゃいますのは?」
「それはねえこうなのです。そのお方が何かを欲しいと思って、それを持っている人を見詰めた時、その人がそれを与えればよし、与えない時にはその人の身の上に、恐ろしい災難が落ちて来るという……」
「ああではとっつき[#「とっつき」に傍点]なのでございますね」
「そう、ある土地ではとっつき[#「とっつき」に傍点]と云い、あるところでは犬神《いぬがみ》ともいいます」
「犬神※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」とわたしは思わず叫びました。「あの女も犬神だった!」
竹田街道の立場茶屋や、土佐堀の岸で逢った例の女のことを、忽然思い出したからでございます。
「でもあの屋敷はずっと長い間、空家になっているのですよ」
と、そう尼僧《あま》様が云いましたので、わたしは尼僧様の方へ眼をやりました。尼僧様は歩き出しておりました。
「いえ、ところが、雨戸が開いて、たった今綺麗な手が出たのです」と、私は云い云い腰を上げました。
でも尼僧様は何んにも云わないで、わたしのことなど忘れたかのように、少し足早に五反麻の方へ、歩いて行っておしまいになりました。
それでもわたしはなお未練らしく、眼の前の屋敷を見ていました。すると土塀の正面の辺に、頑丈な大門がありまして、その横に定式《おきまり》の潜門《くぐり》がありましたが、その潜門《くぐり》が内側《なか》から開きまして、一人の男が出て来ました。
(やはり空家ではなかったのだな)こう思いながらわたしはその男へ近寄り、
「ちょっと物をおたずねいたします」と、こう声をかけました。
「何んですかい?」とその男は云いましたが、わたしの顔をすかすようにし
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