りませぬが、かけてもよいはずの妾《わたし》の手柄、没義道《もぎどう》になされずにねえ主水様……」
「あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……」
そう、主水はお妻の云う通り、あの日陣十郎を追って行き、疲労困憊極まって、鎮守の森で気絶した時、お妻の助けを得なかったなら、後にて聞けば陣十郎が、森へ立ち戻って来たとはいうし、その陣十郎のために刃の錆とされ、今に命は無かったろう。だからお妻は命の恩人と、心から感謝はしているのであり、そのお妻が来る度毎に、それとなく、いやいや、時には露骨に、自分に対して恋慕の情を、暗示したり告げたり訴えたりした。でお妻が自分を助けた意味も、とうに解ってはいるのであった。
さりとてそのため何でお妻と、不義であり不倫であり背徳である関係、それに入ることが出来ようぞ!
「主水様」とお妻は云った。
「あなた様にはまだこの妾《わたし》が陣十郎の寵女《おもいもの》、陣十郎の情婦《いろおんな》、それゆえ心許されぬと、お思い遊ばして居られますのね」
下から顔を覗かせて、主水の顔色を窺った。
「いかにも」と主水は苦しそうに云った。
「それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵《かたき》! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女《あなた》様のお志に……」
「従うことなりませぬか」
「不倶戴天の[#「不倶戴天の」は底本では「不具戴天の」]敵の情婦に……」
「では何でおめおめ助けられました」
「助けられたは知らぬ間のこと……」
「では何で介抱されました……」
答えることが出来なかった。思われるはただ機を失した! 機を失したということであった。
助けられたその翌日、訊ねられるままにお妻に対し、主水は姓名から素性から、その日の出来事から敵討のことから、敵の名さえ打ち明けた。
と、お妻は驚いたように、主水の顔を見詰めたが、やがて自分が陣十郎の情婦、お妻であることを打ち明けた。
これを聞いた時の主水の驚き!
同時に思ったことといえば、
(助けられなければよかったものを!)
――というそういうことであり、直ぐにも立ち退こうということであった。
6
(直ぐに立ち退いたらよかったものを)
今も主水《もんど》はこう思っ
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