が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅い
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