いい」
「浮子を釣るのでもござりますまいに」
「で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ」
「鮒一匹、そのくらいのもので」
「魚のことを云っているのではない」
「ははあ左様で。……では何を?」
「つまりあの業《わざ》を破る術じゃ」
「は? あの業と仰せられまするは?」
「水品陣十郎の『逆ノ車』……」
「ははあ」
「お、あれは何だ」
その時上流から女を乗せた、死んだように動かない若い女を乗せた、古船が一隻流れて来た。
「東馬、寄せろ、船を岸へ」
「飛んでもないものが釣れましたようで」
若侍は云い云い袴を脱ぎかけた[#「脱ぎかけた」は底本では「股ぎかけた」]。
が、古船は自分の方から、ゆるゆると岸の方へ流れ寄って来た。
武士は釣棹の柄の方を差し出し、船縁へかけて引き寄せるようにしたが、
「女を上げて介抱せい」
そう若侍へ厳しく云った。
鳳凰と麒麟
1
それから幾日か経った。
秋山要介は杉浪之助を連れて、秩父郡小川村《ちちぶのこおりおがわむら》の外れに、あたかも嵎《ぐう》を負う虎の如くに蟠居し、四方の剣客に畏敬されている、甲源一刀流の宗家|逸見《へんみ》多四郎義利の、道場構えの広大な屋敷へ、威儀を作って訪れた。
「頼む」
「応」と返事があって、正面の襖が一方へひらくと、小袴をつけた若侍が、恭しく現われた。
「これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました」
「逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい」
「は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……」
「ははあ、いまだにお帰りない」
「帰りませんでござります」
「先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰《ほうおう》と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな」
洒脱であり豪放ではあるが、他人に対してはいつも丁寧な、要介としてはこの言葉は、かなり角立ったものであった。
傍に引き添っていた浪之助も、これはおかしいと思った程である。
面喰ったらしい取次の武士は、
「は、ご尤《もっと》もには存じますが、主人こと事実江戸へ参り、今に帰宅いたしま
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