た。一方は、隣り部屋と境いをなしている壁であり、一方は、閉めのこされてある襖であり、正面は紙帳である。――この三つのもの[#「もの」に傍点]によって、濃い闇を作っているこの場所は、何んと身を隠すに屈竟[#「屈竟」はママ]な所であろう。
 彼は、頼母が、自分の方へは来ないで、反対の方へ進み、紙帳の釣り手を、次々に切っておとすのを見ていた。走りかかり、背後から、一刀に斬り斃《たお》すことは、彼にとっては何んでもないことであった。しかし、彼はそれをしなかった。何故だろう? 蜘蛛が、自分の張った網へ、蝶が引っかかろうとするのを、網の片隅に蹲居《うずくま》りながら、ムズムズするような残忍な喜悦《よろこび》をもって、じっと眺めている。――それと同じ心理《こころ》を、左門が持っているからであった。
 まだ彼は動かなかった。
 しかし彼には、紙帳の彼方《むこう》に、刀を構え、斬り込もう斬り込もうとしながらも、こっちの無言の気合いに圧せられ、金縛りのようになっている、頼母の姿が、心眼に映じていた。
 彼は、姿を見せずに、気合いだけで、ジリジリと、相手の精神《こころ》を疲労《つか》れさせているのであった。

    斬り下ろした左門

 神気《こころ》の疲労《つかれ》が極点に達した時、相手は自然《ひとりで》に仆れるか、自暴自棄に斬りかかって来るか、二つに一つに出ることは解っていた。そこを目掛け、ただ一刀に仕止めてやろう。――これが左門の狙いどころなのであった。
 彼の観察は狂わなかった。頼母は、凋《しぼ》んだ朝顔を逆さに懸けたような形の紙帳の、その萼《がく》にあたる辺を睨み、依然として刀を構えていたが、次第に神気《こころ》が衰え、刀持つ手にしこり[#「しこり」に傍点]が来、全身に汗が流れ、五体《からだ》に顫えが起こり、眼が眩みだして来た。……と、不意に一足ヒョロリと前へ出た。蝦蟇《がま》が大きく引く呼吸《いき》をするや、空を舞っている蠅が、弾丸《たま》のようにその口の中へ飛び込んで行くであろう。ちょうどそのように、頼母は、眼に見えない左門の気合いに誘引《おびきよ》せられたのであった。ハッと気付いた頼母は、背後へ引いた。が、次の瞬間には、ヒョロヒョロと、もう二足前へ誘《おび》きだされていた。
 猛然と頼母は決心した。
(身を捨ててこそ!)
 畳の上に敷かれてある紙帳を踏み、例の萼にあたる一点を目ざし、真一文字に突っ込んだ。
 グンニャリとした軟らかい物を蹠《あしうら》に感じた。萼が崩れ落ちた。一筋の釣り手が、切って落とされたのである。その背後へ、巨大な丸太がノシ上がった。自分で釣り手を切って落とし、その刀を上段に振り冠り、左門が突っ立ったのであった。闇の夜空を縦に突ん裂く電光の凄さを見よ! 左門は斬り下ろした! 悲鳴が上がって頼母の体が紙帳の上へ仆れた。しかし悲鳴は女の声であった。斬り損じた刀を取り直し、再度頭上へ振り冠った左門の足もとを、坂を転がり落ちる丸太のように、頼母の体が転がり、縁側の方へ移って行った。紙帳の中の、気絶しているお浦の体を踏んだのは、頼母にとっては天祐であった。それで彼は足を掬われて仆れ、左門の太刀を遁がれることが出来たのである。左門は、転がって逃げる頼母を追った。しかし縁まで走り出た時には、既に頼母は起き上がり、庭を走っていた。
「逃げるか、卑怯者、待て!」
 左門は追い縋った。
 喊声《ときのこえ》が起こった。
 十数人の人影が、抜き身を芒《すすき》の穂のように揃え、一団となり、庭を、こっちへ殺到して来ようとしていた。
 五郎蔵の乾児《こぶん》達であった。
 その中から角右衛門の声が響いた。
「彼奴《きゃつ》こそ、先夜、飯塚殿の屋敷で、我々の同僚二人を、いわれなく討ち果たしました悪侍でござる!」
 つづいて、紋太郎の声が響いた。
「我々同僚の敵《かたき》、お討ち取りくだされ!」
 その人数の中へ、駈け込んで行く頼母の姿が見えた。
 頼母の声が響いた。
「彼は五味左門と申し、拙者の実父忠右衛門を討ち取りましたる者、本日巡り逢いましたを幸い、復讐いたしたき所存……」
 群の中には、松戸の五郎蔵もいた。寝巻姿ではあるが、長脇差しを引っ下げ、抜け上がっている額を月光に曝《さ》らし、左門の方を睨んでいた。
 彼は、紋太郎によって呼び立てられ、眼覚めるや、乾児たちと一緒に、庭へ出て来たのであった。彼は、来る間に、紋太郎から、紙帳武士のどういう素姓の者であるかを聞かされた。飯塚薪左衛門の屋敷で、角右衛門や紋太郎の同僚を、二人まで、いわれもないのに討ち果たした悪侍とのことであった。しかし彼としては、その言葉を、どの程度まで信じてよいか解らなかった。が、庭へ出て来て、前髪立ちの武士から、その武士が、親の敵だと叫ばれ、その武士が、前髪立ちの武士を追って走って来、自分たちの姿を見るや、刀を背後《うしろ》へ隠して下げ、右腕を左胴まで曲げて柄を握り、右足を踏み出した異様な構えで、全身から殺気を迸《ほとばし》らせながら、しかも寂然と静まり返って立った姿を見ると、容易ならない相手だと思い、いかさま、人など、平気で幾人でも殺す奴だろうと思った。
「野郎ども」と五郎蔵は、乾児たちに向かって怒鳴った。「あの三ピンを、引っ包《くる》んで膾《なます》に刻んでしまえ! しかし殺しちゃアいけねえ。止どめはお若衆に刺させろ! やれ!」
 声に応じて乾児たちは、一本の杭を目差して、黒い潮が、四方から押し寄せて行くように、左門を目掛け、殺到した。
 黒い潮が、渦巻き、沸《わ》き立つように見えた。飛沫《しぶき》が、水銀のように四方へ散った。――白刃が前後左右に閃めくのであった。数声悲鳴が起こった。渦潮は崩れ、一勢に引いた。杭は、わずかにその位置を変えたばかりで、同じ姿勢で立ってい、その前の地面に、三個《みっつ》の死骸が――波の引いた海上に、小さい黒い岩が残ったかのように、転がっていた。左門に斬られた五郎蔵の乾児たちであった。

    子供を産む妖怪蜘蛛

 五郎蔵は地団駄を踏み、いつか抜いた長脇差しを振り冠り、左門へ走りかかったが、にわかに足を止め、離座敷《はなれ》の方を眺めると、
「蜘蛛《くも》が! 大蜘蛛が!」
 と喚き、脇差しをダラリと下げてしまった。
 畳数枚にもあたる巨大な白蜘蛛が、暗い洞窟の中から這い出すように、今、離座敷《はなれ》の、左門の部屋から、縁側の方へ這い出しつつあった。背を高く円く持ち上げ、四本の足を引き摺るように動かし、やや角ばって見える胴体を、縦に横に動かし――だから、太い、深い皺を全身に作り、それをウネウネと動かし、妖怪《ばけもの》蜘蛛は、やがて縁から庭へ下りた。と、離座敷が作っている地上の陰影《かげ》から、蜘蛛は、月の光の中へ出た。蜘蛛の白い体に、無数に附着《つ》いてる斑点《まだら》は、五味左衛門の腸《はらわた》によって印《つ》けられた血の痕であり、その後、左門によって、幾人かの人間が斬られ、その血が飛び散って出来た斑点でもあった。そうして、この巨大な妖怪蜘蛛は、紙帳なのであった。では、四筋の釣り手を切られ、さっきまで、部屋の中に、ベッタリと伏し沈んでいた紙帳が、生命《いのち》を得、自然と動き出し、歩き出して来たのであろうか? 幾人かの男女が、その内外で、斬られ、殺されて、はずかしめられ、怨みの籠っている紙帳である、それくらいの怪異は現わすかもしれない。
 庭を歩いて行く紙帳蜘蛛は、やがて疲労《つか》れたかのように、背を低めて地へ伏した。しかしすぐに立ち上がった。背が高く盛り上がった。と、それに引き絞られて、紙帳の四側面が内側へ窪み、切られ残りの釣り手の紐《ひも》を持った四つの角が、そのためかえって細まり、さながら四本の足かのようになった。窪んだ箇所は黒い陰影を作り、隆起している角は骨のように白く見えた。紙帳蜘蛛は歩いて行く。と、蜘蛛は、地面へ、子供を産み落とした。彼が地面へ伏し沈み、やがて立って歩き出したその後へ、長い、巾の小広い、爬虫類を――蛇《くちなわ》を産み落としたのである。しかしそれは、黒繻子《くろじゅす》と、紫縮緬とを腹合わせにした、女帯であった。女帯は、地上に、とぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻き尻尾《しっぽ》にあたる辺を裏返し、その紫の縮緬の腹を見せていた。蜘蛛は、自分の影法師を地に敷きながら、庭を宛《あて》なく彷徨《さまよ》って行った。と、また子供を産み落とした。紅裏をつけた、藍の小弁慶の、女物の小袖であった。蜘蛛は、庭の左手の方へ、這って行った。
 やがて、母屋と離座敷《はなれ》との間の通路《みち》から、この旅籠《はたご》、武蔵屋の構外《そと》へ出ようとした。そうしてまたそこで、地上へ、血溜りのような物を――胴抜きの緋の長襦袢を産み落とした。
 三個の死骸を間に挾み、左門と向かい合い、隙があったら斬り込もうと、刀を構えていた頼母も、その背後に、後見でもするように、引き添っていた五郎蔵も、刀を逆ノ脇に構え、頼母と向かい合っていた左門も、その左門を遠巻きにしていた五郎蔵の乾児たちも、そうして、この中庭の騒動に眼を覚まし、母屋の縁や、庭の隅などに集まっていた、無数の泊まり客や、旅籠の婢《おんな》や番頭たちは、この、紙帳蜘蛛の怪異に胆を奪われ、咳一つ立てず、手足を強張《こわば》らせ、呼吸《いき》を呑んでいた。不意に、左門の口から、呻くような声が迸ったかと思うと、紙帳を追って走り出した。
「遁《の》がすな!」という、五郎蔵の、烈しい声が響いた。瞬間に、乾児たちが、再度、四方から、左門へ斬りかかって行く姿が見えた。しかし左門が振り返りざま、宙へ刀を揮うや、真っ先に進んでいた乾児の一人が、左右へ手を開き、持っていた刀を、氷柱《つらら》のように落とし、反《の》けざまに斃れた。
 蜘蛛の姿は消えていた。

 その蜘蛛が、しばらく経って姿をあらわしたのは、武蔵屋から数町離れた、瀬の速い川の岸であった。その岸を紙帳蜘蛛は、よろめきよろめき、喘ぎ喘ぎ、這っていた。でも、とうとう疲労《つか》れきったのであろう、四足を縮め、胴体に深い皺《しわ》を作り、ベタベタと地へ腹這った。円く高く盛り上がっていた背も撓《たわ》み、全体の相が角張り、蜘蛛というより、やはり、一張りの紙帳が、地面へ捨てられたような姿となった。川面を渡って、烈しく風が吹くからであったが、紙帳は、痙攣《けいれん》を起こしたかのように、顫《ふる》えつづけた。と、不意に紙帳は寝返りを打った。風が、その内部《なか》へ吹き込んだため、紙帳が一方へ傾き、ワングリと口を開けたのである。忽然、紙帳は、一間ほど舞い上がった。もうそれは蜘蛛ではなく、紙鳶《たこ》であった。巨大な、白地に斑点を持った紙鳶は、蒼々と月の光の漲《みなぎ》っている空を飛んで、三間ほどの彼方《むこう》へ落ちた。でも、また、すぐに、川風に煽られ、舞い上がり、藪や、小丘や、森や、林の点綴《つづ》られている、そうして、麦畑や野菜畑が打ち続いている平野の方へ、飛んで行った。

    怨恨上と下

 最初、紙帳の舞い上がった地面に、一人の女が仆れていた。お浦であった。水色の布《きぬ》を腰に纒っているばかりの彼女は、水から上がった人魚のようであった。
 彼女は疲労《つか》れ果てていた。左門によって気絶させられたところ、頼母に踏まれて正気づいた、そこで彼女は夢中で遁がれようとした。が、彼女を蔽うている紙帳が、彼女にまつわり、中から出ることが出来なかった。冷静に考えて、行動したならば、紙帳から脱出《のがれだ》すことなど、何んでもなかったのであろうが、次から次と――部屋の間違い、気絶、斬り合いの叫喚《さけび》、次から次と起こって来た事件のため、さすがの彼女も心を顛倒《てんとう》させていた。そのため、紙帳を冠ったまま、無二無三に逃げ廻ったのである。体をもがくにつれて、帯や衣裳は脱げて落ちた。
 藻屑《もくず》のように振り乱した髪を背に懸け、長い頸《うなじ》を延びるだけ延ばし、円い肩から、豊かな背の肉を、弓形にくねらせ、片頬を地面へくっ
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