母は、やにわに刀を突き出して見た。闇を突いたばかりであった。額に、冷たい汗を覚えながら、頼母はホッと息を洩らし、紙帳の角まで進んだ。前方《むこう》を睨んだ。部屋の壁と、紙帳の側面とで出来ている空間が、ただ、暗く細長く見えるばかりで、敵の姿は見えなかった。頼母は、ソロソロと進んだ。すぐに、紙帳の二つ目の角まで来た。
頼母の足は動かなくなった。(あの角の向こう側にこそ)こう思うと、居縮《いすく》むのであった。ほんのさっきまで、左門など何者ぞと、気負い込んでいた彼の自信も勇気も、今は消えてしまった。技倆《うで》の相違がそうさせるのであり、十畳敷きほどの狭いこの部屋の中に、恐ろしい相手が確かにおりながら、その姿が見えないということが、そうさせるのであった。
(どうしたものか?)
この時、霊感のようなものが心に閃めいた。
頼母はやにわに刀を空に揮《ふる》った。紙帳の釣り手を切ったのである。紙帳の一角が、すぐに崩れ出した。やわやわと撓《たわ》み、つづいて沈み、方形であった紙帳が、三角の形となって、暗い中に懸かって見えた。しかし、左門の姿は見えなかった。三つ目の紙帳の角へ来て、その釣り手を切った時にも、左門の姿は見えなかった。紙帳は今や、二つの釣り手を切られ、庭に面した残りの二筋の釣り手によって、掲げられているばかりとなり、開けられてある襖を通し、中庭が見えていた。
(左門の隠れ場所が解った。紙帳の四つ目の角の蔭だ)頼母はこう思った。
左門はたして何処《いずこ》
それに相違なかろうではないか。頼母は、部屋へはいるや、右手へ進み、第一、第二、第三、と、三つまで、紙帳の角を通ったのであった。しかも、左門はいなかった。では、残った、最後の紙帳の四つ目の角の向こう側に、おそらく膝を折り敷き、刀を例の逆ノ脇に構え、豹のような眼をして、狙っているに相違ないではないか。
こう思うと頼母は、また新たに恐怖を感じたが、刀を中段にヒタとつけ、その角を睨《にら》み、様子をうかがった。
ところが、これより少し以前《まえ》から、母屋に近い中庭に、二つの人影があって、こっちを眺め、囁《ささや》いていた。
角右衛門と紋太郎とであった。
さっきから中庭で、人の云い争うような声が聞こえた。そこは五郎蔵一家の用心棒である二人であった。身内同士間違いを起こしたのではあるまいかと、二人して寝所から脱け出し、様子を見に来たところ、向こう側の離座敷《はなれ》の襖が開いてい、紙帳の釣ってあるのが見えた。
「紙帳だーッ」
「うむ、紙帳が!」
二人ながら呻くように云った。
先夜、飯塚薪左衛門の屋敷で、紙帳の中の武士に、同僚二人を討たれたことを思い出したからである。
と、紙帳の釣り手が、次々に二ヵ所まで切られたのが見えた。
(何か事件が起こっている)と、二人ながら思った。
「小林|氏《うじ》」と、角右衛門は、汗を額へ産みながら、「これは、あの時の武士らしゅうござるぞ」
「さよう」と、紋太郎は、若年だけに、一層|怯《おび》え、地に敷かれている影法師が揺れるほどに顫えながら、「其奴《そやつ》がまた誰かを……どっちみち、あの部屋で切り合いが……」
「彼奴《きゃつ》とすれば同僚の敵、……討ち取らいでは……と云って、あの凄い剣技《うで》では……こりゃア親分にお話しして……」
「乾児《こぶん》衆にも……」
「うむ。……では貴殿……」
「心得てござる……」
と、紋太郎は、母屋の縁へ駈け上がり、五郎蔵一家の寝ている、奥座敷の方へ走って行った。
それを見送ろうともせず、怯えた眼で、角右衛門は、紙帳ばかりを見ていた。
と、また、釣り手が一筋切られた。
切ったのは頼母であった。
頼母は、あるいは左門が、最初の位置から身を移し、紙帳の、第一の角の背後に隠れていようもしれぬと思い、ソロソロと紙帳の裾を巡り、引き返し、真っ先に自分が曲がった紙帳の角まで近付き、釣り手を切って落としたのであった。
「出ろ! 左門!」
と頼母は叫んだ。しかし、叫んだものの、飛びかかって行こうとはせず、反対に、飛び退くと、部屋の背後の壁へ背をもたせ、刀を、例の中段に構え、眼前を睨んだ。
釣り手を切られた紙帳の角は、やわやわと撓み、やがて崩れ、今は一筋の釣り手に掲げられている紙帳は、凋《しぼ》んだ朝顔の花を、逆《さか》さに懸けたような形に、斜面をなして懸かっていた。
左門の姿は見えなかった。
いよいよ左門の居場所は確実に解った。やはり、最後に残った釣り手の背後――釣り手の角の背後にいるのであった。
その方へグッと切っ先を差し付け、頼母は大息を吐いた。
さよう、左門はその位置に、片膝を敷き、片膝を立て、刀を逆ノ脇に構え、最初《はじめ》から現在《いま》まで、寂然《せきぜん》と潜んでいたのであっ
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