テ二ニ応ズル事也。請ケテ打チ、外シテ斬ルハ、一ハ一、二ハ二ニ応ズル事也。一ヲ以テ二ニ応ズル時ハ必ズ勝ツ」
彼は口の中で読んで行った。
(すなわち、積極的に出れば必ず勝つということなのだな)
彼は、本来が学究的の性格だったので、剣道を修めるにも、道場へ通って、竹刀《しない》や木刀で打ち合うことだけでは満足しないで、沢庵禅師の「不動智」とか、宮本武蔵の「五輪の書」とか、そういう聖賢や名人の著書を繙《ひもと》くことによって、研究を進めた。今、「一刀斎先生剣法書」を読んでいるのもそのためであった。
(積極的に出れば必ず勝つということだな……少なくも、五味左門と出合った時には、この法で、この意気で、立ち合わなければならない)
(お浦はどうしたものであろう?)
頼母は、「一刀斎先生剣法書」から眼を放し、考えた。
さっき、縁側で人の気配がしたので、それかと思ったところ、隣りの部屋の襖が開き、そこへはいって行ったらしく、音沙汰なくなった。その後は、人の来る様子もなかった。
(浮気者らしかったお浦、俺のことなど忘れてしまったのかも知れない)
時が経って行った。寝静まっている旅籠《はたご》からは、何んの物音も聞こえて来なかった。
立ち向かった左門と頼母
突然、隣りの部屋から、女の叫び声の聞こえて来たのは、さらにそれからしばらく経った後のことであった。(はてな?)と頼母は耳を澄ました。(変だ!)……というのは、その女の叫び声が「頼母様!」と聞こえ、「天国様を」と聞こえたからであった。しかしそれだけで、後は聞こえて来なかった。
(空耳だったかな)
そのくせ頼母は、傍《かたわ》らの刀を掴み、立ち上がった。襖をあけて縁側へ出た。すぐ眼にはいったのは、月光で、霜でも降ったように見える広い中庭と、中庭を距《へだ》てて立っている母屋《おもや》とであった。縁側を左の方へ数歩あゆめば隣り部屋の前へ行けた。そこで頼母は足音を忍ばせ、隣り部屋の前まで行き、また、耳を澄ました。たしかに人のいる気配はあったが、声は聞こえなかった。
(これからどうしたものだろう?)
不躾《ぶしつ》けに襖をあけることは出来なかった。とはいえ、女の声で、自分の名を呼び、天国様をと云ったからには、――空耳でないとして――声の主を確かめたかった。
(まさかお浦が、こんな部屋《ところ》へ来ていようとは思われないが……)
しかし……いや、しかしも何もない、声の主を確かめさえすればよいのだ! ……しかし、それをするには、やっぱり襖をあけなければ……。
(咎《とが》められたら、部屋を間違えたと云えばよい)
頼母は、わざと無造作に襖をあけた。
「あッ」
声と一緒に、ほとんど夢中で、頼母は、庭へ飛び下り、これも夢中で抜いた刀を、中段に構え、切っ先越しに、部屋の中を睨《にら》んだ。
見誤りではなかった。帳内《なか》で灯っている燈の光で、橙黄色《だいだいいろ》に見える紙帳が、武士の姿を朦朧《もうろう》と、その紙面《おもて》へ映し、暗い部屋の中に懸かっている。
(林の中に釣ってあった紙帳だ。では、あの中にいる武士は、五味左門に相違ない。……先夜は、知らぬこととはいえ、同じ飯塚薪左衛門殿の屋敷へ泊まり合わせ、今夜は、同じこの旅籠の、しかも壁一重へだてた部屋に泊まり合わせようとは)
運命の不思議さ気味悪さに、頼母は、一瞬間茫然としたが、
(左門は親の敵、あくまで討ち取らなければならないのであるが、あの凄い腕前では……)
体の顫えを覚えるのであった。
しかし彼にとって、一抹の疑惑があった。紙帳は、左門ばかりが釣っているとは限らない。紙帳の中の武士は、左門ではないかもしれない……。
(何んといって声をかけたらよかろうか?)
彼はしばらく紙帳を睨んで躊躇《ためら》った。
紙帳は、そういう彼を、嘲笑うかのように、そよぎ[#「そよぎ」に傍点]もしないで垂れている。
「卒爾ながら、紙帳の中のお方にお訊ね致す」
と、とうとう頼母は、少し強《こわ》ばった声で云った。
「貴殿、先夜、飯塚薪左衛門殿の屋敷へ、お泊まりではなかったかな」
こう云ってから、これはいいことを訊いたと思った。泊まったといえば、紙帳の中の武士は、五味左門に相違ないからであった。何故というに、左門は、先夜、自分の本名を宣《なの》って、薪左衛門の屋敷へ泊まったということであるから。
しかし紙帳の中からは、返辞がなく、紙帳に映っている人影も、動かなかった。
頼母は焦心《あせり》を感じて来た。それで、ジリジリと、縁側の方へ歩み寄りながら、
「貴殿はもしや、五味左門と仰せられるお方ではござらぬかな?」と訊いた。
すると、ようやく、紙帳に映っている人影が動き、嗄《しわが》れた声で、
「そう云われる貴殿は、どなたでござるかな
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