なる)
 とこう思って、そっちへ歩きだしたのであった。
 歩くにつれて、足からも手からも血がしたたった。
 しかし彼が道了塚まで辿《たど》りついたなら、南無妙法蓮華経と刻《ほ》られた碑《いしぶみ》にもたれ、天国の剣を放心したように握り、眼を閉じ、首を傾げ、昔の記憶を蘇生《よみがえ》らせようと、じっと思いに耽っている、飯塚薪左衛門の姿を、見かけなければならないだろう。
 そう、薪左衛門は、そういう姿勢で、この頃、道了塚の頂きに坐っていた。
 彼の顔には苦悶の表情があり、彼の体は不安に戦《おのの》いていた。白髪には陽があたり、銀のように輝いていたが、その頭は、高く上がりそうもなかった。
 人間の思考の中に、盲点というものがある。その盲点の圏内にはいった記憶は、奇蹟的事件にぶつからない限り、思い出されないということである。何故薪左衛門が、来栖勘兵衛と、この道了塚で決闘したか、その理由の解らないのも、その盲点に引っかかっているからであるらしい。
 そうして、さっき聞こえて来た、塚の下からの悲しい叫び声、
「秘密は剖《あば》かない、裏切りはしない、助けてくれーッ」
 という声の主の何者であるか? 何んでそう叫ぶのか? それらのことの解らないのも、盲点の圏内に、その記憶が引っかかっているかららしい。
 ところで……広々と展開《ひら》けている耕地を海とし、立ち連なっている林を陸とすれば、道了塚は、陸に近い、小島と云ってよく、その小島にあって、陸の林の一方を眺めたなら、林の縁を、人家の方へ一散に走って行く、二人の人影を見たであろう。戸板を舁き捨て、素早く逃げ出した五郎蔵の二人の乾児《こぶん》であった。二人の走って行く様は、檻《おり》から解放された獣かのように軽快であった。
 と、その二人の走って行く方角の、十数町の彼方《あなた》から、此方《こなた》を目差し、二十人ほどの一団が、林へ駆け込んだり、耕地へ出たりして、走って来るのが見えた。
 松戸の五郎蔵と、その乾児たちであった。
 五郎蔵の左右に従《つ》いているのは、角右衛門と紋太郎とで、この二人の注進により、五郎蔵は、頼母によって、自分の乾児たちが殺されたことを知り、復讐のために乾児を率い、農家の納屋へ馳せつけた。乾児たちの死骸が転がっているばかりで、頼母の姿も、お浦、典膳の姿も見えなかった。母屋の門口で、種を選《え》り分《わ》けていた老婆に訊《き》くと、戸板を担《にな》った三人の者が、林の中へ駆け込んだと云う。
(頼母が、お浦と典膳とを戸板に載せ、生き残った俺の乾児に担《かつ》がせ、逃げたのだ)
 と、五郎蔵は察した。怒りと、嫉妬とが彼を狂気のようにした。
「どこまでも追っかけ、探し出し、頼母、典膳、お浦、三人ながら叩っ殺せ!」
 こうして一団は林へ駆け込み、こっちへ走って来るのであった。乾児の中には、竹槍を持っている者もあった。もう性急に脇差しを抜いて、担いでいる者もあった。武士あがりの、逞《たく》ましい顔の五郎蔵は、額からも頤からも汗をしたたらせ、火のような息をしながら、先頭に立って走っていた。
 殺気は次第に道了塚と、その附近の林とに迫りつつあった。
 それだのに、紙帳の中の、何んと、今は静かなことだろう! 左門の声も栞の声も聞こえず、咳《しわぶき》一つしなかった。
 頼母は、そういう気味悪い沈黙の紙帳を前にして、石像のように立ち尽くしていた。構えている刀の切っ先が顫えているのは、彼の心が焦慮している証拠であった。
(何故|沈黙《だま》っているのだろう? 何が行われているのだろう? ……栞はどうしているのだ? ……いや栞は何をされているのだろう?)
 恋人の栞が、殺人鬼のような左門と、紙帳の中にいる。二人ながら黙っている。何をされているのだ? もしや咽喉でも絞められて? ……
 これを思うと頼母の腸《はらわた》は掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られるようであった。

    必死のお浦

 この時、遙かの林の奥から、喊声が聞こえて来た。五郎蔵たちの一団と、戸板を置き捨て、逃げて行った二人の乾児とが邂逅《めぐりあ》い、二人の乾児によって、頼母と、お浦と、典膳との居場所を知った五郎蔵たちの揚げた声であった。
「逃がすな!」「もう一息だ!」
 二十数人の一団は、藪を廻り、木立ちを巡り、枯れ草を蹴開き、無二無三に走った。
「いたぞーッ」
 という叫びをあげたのは、先頭切っていた五郎蔵であった。
「左門などには眼をくれるな! 頼母とお浦と典膳とを仕止めろ!」
 こう五郎蔵が叫んだ時には、長脇差しを抜いていた。
 悪罵と怒号とが林を揺すり、乾児たちの抜いた、二十数本の脇差しが、湾に寄せた怒濤が、高く上げた飛沫《しぶき》のように白光った。そう、五郎蔵たちの一団は、紙帳を背後
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