活《くらし》をしている輩《やから》であったが、得体の知れない、この深夜の軋り音《ね》には気味が悪いと見え、呼吸《いき》を呑んで、ひっそりとなった。軋り音は、左の方へ、徐々に移って行くようであった。不意に角右衛門が立ち上がった。つづいて三人の武士が立ち上がり、揃って廊下へ出、雨戸を開けた。四人の眼へはいったものは、月夜の庭で、まばらの植え込みと、その彼方《あなた》の土塀とが、人々の眼を遮った。しかし、軋り音の主の姿は見えず、ずっと左手奥に、はみ出して作られてある部屋の向こう側から、音ばかりが聞こえて来た。でも、それも、次第に奥の方へ移って行き、やがて消え、吹いて来た風に、植え込みに雑じって咲いている桜が、一斉に散り、横撲りに、四人の顔へ降りかかった。四人の者は、そっと吐息をし、府中の町が、一里の彼方、打ち開けた田畑の末に、黒く横仆《よこたわ》っているのを、漠然と眺めやった。町外れの丘の一所が、火事かのように赤らんでいる。
「そうそう」と角右衛門が云った。「今日から府中は火祭りだったのう。あの火がそうじゃ」
「向こう七日間は祭礼つづき、町はさぞ賑わうことであろう」――これは片岡という武士であった。
「府中の火祭り賭場は有名、関東の親分衆が、駒箱を乾児《こぶん》衆に担がせ、いくらともなく出張って来、掛け小屋で大きな勝負をやる筈。拙者、明日は早々ここを立って、府中《あそこ》へ参るつもりじゃ」これは山口という武士であった。
「わたくしも明日は府中へ参ります所存。この頃中|不漁《しけ》で、生物《なまもの》にもありつかず、やるせのうござれば、親分衆に取り持って貰って……」
と、紋太郎が云った。生物というのは女のことらしい。
血蜘蛛の紙帳
それを聞くと、角右衛門は笑ったが、
「貴殿方は、どの親分のもとへ参らるる気かな。拙者は、松戸の五郎蔵殿のもとへ参るつもりじゃ。関東には鼻を突くほど、立派な親分衆がござるが、五郎蔵殿ほど、我々のような浪人者を、いたわってくださる仁はござらぬ」
「それも、五郎蔵殿が、武士あがりだからでございましょうよ」
酔った頬を、夜風に嬲《なぶ》られる快さからか、四人の者は、雨戸の間《あい》に、目白のように押し並び、しばらくは雑談に耽ったが、やがて部屋の中へはいった。とたんに、
「やッ、腰の物が見えぬ!」と、角右衛門が、狼狽したように叫んだ。
皿や小鉢や燗徳利の取り散らされてある座敷に突っ立ったまま、四人は、また顔を見合わせた。わずかな時間《あいだ》に、四人の刀が、四本ながら紛失しているではないか。
「盗まれたのじゃ」
「家の者を呼んで……」
「いやいやそれ前に、一応あたりを調べて……」と、年|嵩《かさ》だけに、角右衛門は云い、燭台をひっさげると、次の間へ出た。次の間にも刀はなかった。その次の間へ行った。そこにも刀はなかった。そこを出ると廊下で、鉤の手に曲がっていた。その角にあたる向こう側の襖をあけるや、角右衛門は、
「おお、これは!」と云って、突っ立った。
続いた三人の武士も、角右衛門の肩ごしに部屋の中を覗いたが、「おお、これは!」と、突っ立った。
その部屋は十畳ほどの広さであったが、その中央《なかほど》に、紙帳《しちょう》が釣ってあり、燈火《ともしび》が、紙帳の中に引き込まれてあるかして、紙帳は、内側から橙黄色《だいだいいろ》に明るんで見え、一個《ひとつ》の人影が、その面《おもて》に、朦朧《もうろう》と映っていた。総髪で、髷を太く結んでいるらしい。鼻は高いらしい。全身は痩せているらしい。そういう武士が、刀を鑑定《み》ているらしく、刀身が、武士の膝の辺《あた》りから、斜めに眼の辺りへまで差し出されていた。――そういう人影が映っているのであった。それだけでも、四人の武士たちにとっては、意外のことだったのに、紙帳の面《おもて》に、あるいは蜒々《えんえん》と、あるいはベットリと、あるいは斑々と、または飛沫《しぶき》のように、何物か描かれてあった。その色の気味悪さというものは! 黒に似て黒でなく、褐色に似て褐色でなく、人間の血が、月日によって古びた色! それに相違なかった。描かれてある模様は? 少なくも毛筆《ふで》で描かれた物ではなかった。もし空想を許されるなら、何者か紙帳の中で屠腹《とふく》し、腸《はらわた》を掴み出し、投げ付けたのが紙帳へ中《あた》り、それが蜒《うね》り、それが飛び、瞬時にして描出したような模様であった。一所にベットリと、大きく、楕円形に、血痕が附いている。巨大な蜘蛛《くも》の胴体《どう》と見れば見られる。まずあそこへ、腸を叩き付けたのであろう。瞬間に腸が千切れ、四方へ開いた。蜘蛛の胴体から、脚のように、八本の線が延びているのがそれだ。蜘蛛の周囲を巡って、微細《こまか》い血痕が、霧のよう
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