転がり廻っていた。と、筵をかけた戸板を担《にな》い、それを取り巻いた十人の男が、街道の方から走って来、庭の中へはいって来た。戸板から滴《しずく》が落ちて、日和《ひより》つづきで白く乾いている庭の礫《こいし》の上へ滴《したた》り、潰れた苺《いちご》のような色を作《な》した。
血だ!
「咽喉が渇いてたまらねえ。水だ水だ」
と喚いて、一人の男が、一団から離れ、母屋《おもや》と隠居家との間にある井戸の方へ走って行った。すると、母屋の縁側近くに集まって、餌をあさりはじめていた、例の家鶏の一群は、これに驚いたか、けたたましく啼き出し、この一団が侵入して来た時から、生け垣の隅で臆病らしく吠えつづけていた犬は、今は憤怒したように猛りたった。
「俺《おい》らも水だ」
と、云って、もう一人の男が、井戸の方へ走った。
そういう二人にはお構いなく、戸板を担った一団は、庭の外れ、街道に添って建ててある、大きな納屋の方へ走って行った。
農事がそろそろ忙しくなる季節であった。この家の人々は、おおかた野良へ出て行ったとみえて、子守娘《こもり》と、老婆とが、母屋の入り口に茣蓙を敷き、穀物の種を選《よ》り分けていたが、その一団を見ると、呆気にとられたように、眼を見合わせた。
咽喉が渇いてたまらねえ、水だ水だと喚いた最初の男が、井戸端まで行った時、井戸の背後の方に、藁葺きの屋根を持った、古い小さい隠居家が、破れ煤《ふす》ぶれた[#「煤《ふす》ぶれた」はママ]障子を陽に焙《あぶ》らせて立っていたが、その障子が、内側から細目に開き、一人の武士が、身を斜めに半身を現わし、蒼味がかった、幽鬼じみた顔を覗かせた。けたたましく啼きたてた家畜の声に、不審を打ったかららしい。
「わッ、わりゃア、五味左門!」
と、井戸端まで辿りついた男は喚いた。松戸の五郎蔵の乾児の、中盆の染八であった。
「野郎!」
と染八は脇差しへ手をかけた。遅かった。
この時、もう左門は、その独活《うど》の皮を剥いたように白い足で、縁板《えん》を踏み、地へ下り、染八の面前へまで殺到して来ていた。
「わッ」
染八の肩から、こう蹴鞠《けまり》の※[#「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2−78−13]《まり》のような物体《もの》が、宙へ飛びあがり、それを追って、深紅の布が一筋、ノシ上がった。切り口から吹き上がった血であった。染八の首級《くび》は、碇綱《いかりづな》のように下がっている撥《は》ね釣瓶《つるべ》の縄に添い、落ちて来たが、地面へ届かない以前《まえ》に消えてしまった。年月と腐蝕《むしくい》とのためにボロボロになっている井桁を通し、井戸の中へ落ちたのであった。
「タ、誰《たれ》か、来てくれーッ」
染八の後を追って、これも水を飲みに来た壺振りの喜代三は、染八の死骸が、片手を脇差しの柄へかけたまま、自分の前へ転がって来たのに躓《つまず》き、夢中で両手を上げて、そう叫んだ。しかし誰も来ない以前《まえ》に、左門の刀が、胴から反対側の脇下まで斬っていた。死骸となって斃れた喜代三の傷口から、大量の血が流れ出、地に溜り、その中で蟻が右往左往した。啓蟄《あなをで》て間のない小蛇が、井戸端の湿地《しめじ》に、灰白い紐のように延びていたが、草履を飛ばせ、跣足《はだし》となり、白い蹠《あしうら》をあらわしている死骸の染八の、その蹠の方へ這い寄って行った。そうしてその、小蛇が、染八の足首へ搦み付いた頃には、五味左門は、道了塚の方へ続いている林の一つへ、その長身を没していた。
彼は道了塚の方へ歩いて行くのであった。
悩みの殺人鬼
懐手《ふところで》をし、少し俯向《うつむ》き、ゆるゆると歩いて行く左門の姿は、たった今、人を殺した男などとは思われないほど、冷静であったが、思いなしか、淋しそうではあった。顔色もいくらか蒼味を帯びていた。林の中はひっそりとしていて、小鳥の啼き声ばかりが、頭上から、左右から聞こえて来た。山鳩が幾羽か、野の方から林の中へ翔《か》け込んで来たが、人間の姿を見て驚いたように、一斉に棹のように舞い立ち、木々の枝へ停まった。
木々を巡り、藪を避《よ》け、左門は、道了塚の方へ歩いて行く。
それにしても、どうして彼は、農家の隠居家などにいたのであろう? 何んでもなかった、三日前の夜、府中の武蔵屋で、ああいう騒動を惹《ひ》き起こしたが、切り抜けて遁がれた。遁がれたものの、伊東頼母を、返り討ちにすることが出来なかったことが残念であった。
(いずれは彼奴《きゃつ》も、この左門を討とうと、この界隈を探し廻っていることであろう、そこを狙って討ち取ってやろう)
こう思い、あの農家に頼み込み、しばらく身を隠して貰っていたのであった。出かけて行って、頼母の居場所を探りたくはあったが、松戸
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