いる主殿の樓の、明るい華やかな笑声を縫って、悲痛極まる女の声が、一声けたたましく聞こえたかと思うと、一所の襖が仆されて、女の姿がよろめき出たが、欄干へ体をもたせかけると、そのままグッタリと動かなくなり、つづいて何物かが女の手から、秋安の足許へ投げられた。
秋安は驚いて小腰を屈め、投げられた物を取り上げて見た。
「九燿の紋の付いた懐刀だ! 血にぬれている、血にぬれている! ああお紅殿は自害なされた! 常陸介殿!」
と、飛びかかるようにしたが、
「お紅殿は自害を致しましたぞ!」
「うむ」と云うと木村常陸介は、腕をしっかりと胸へ組んだが、しばらくの間は黙っている。
と、グイと顔を上げたが、樓上の女の死骸を見た。四五人の人影が現われて、欄干に仆れている女の死骸を、屋内へ運んで行こうとしている。
と、木村常陸介は、にわかに頭を巡らしたが、主殿と並んで立っている、一宇の奇形な建物を見た。その建物と主殿とを繋いで、長い廻廊が出来ていたが、その廻廊に青い燈火《ひ》が、一点ユラユラと揺れながら、建物の方へ進んで行く。一人の侍女《こしもと》が雪洞《ぼんぼり》をささげて、廻廊を進んで行くのであった。いやいやその女一人だけではなくて、その後につづいて四五人の侍女が、群像のように固まって、建物の方へ進んでいた。
「なるほど」と呟いたのは常陸介であった。秋安の方へ顔を向けたが、
「誓った言葉に背きはしませぬ。処女《おとめ》のままの娘として、お紅殿をお返しいたしましょう。お信じなされ、お信じなされ」
そういう言葉には確信らしいものが、さも重々しく籠もってもいた。
酒乱の関白
ちょうどこの頃|主殿《おもや》の樓の、華麗を極めた大広間で、関白秀次が喚いていた。
「女は死んだか、自害したか、ワッ、ハッ、ハッ、それもよかろう。死にたい奴は死ぬがよい。殺してくれなら殺してもやろう。たかが卑しい女一人だ! 切ろうと縊《くび》ろうと俺のままよ! これこれ死骸を片付けろ! 目障りだ目障りだ持って行け! ……さあさあ酒だ! 酌をせい! 今夜は徹夜で飲み明かす。お前達も飲め、俺も飲む」
蒼白の顔色、充血した眼、釣り上った眉、歯を剥いた口、これが関白たる貴人であろうか? そんなようにも思われるほどに、すさみにすさんだ容貌である。髪を茶筌に取り上げて、練絹の小袖を纏っている。盃を握った右の手が、ブルブルと恐ろしく顫えている。癇をつのらせている証拠である。
金泥銀泥で塗り立てられた、絢爛を極めた盃盤が、無数に立てられた銀燭に照らされ、蒔絵をクッキリと浮き出している。朱色に塗られた長柄の銚子が、次から次と運ばれて来る。床の間には黄金の香炉があって、催情的の香の煙が、太い紐のように立っている。
「お那々《なな》、謡え! 幸若《こうわか》、舞え! 伴作《ばんさく》々々鼓を調べろ!」
またも秀次は喚き出した。
「……何を恐れる! 天下人だぞ! 何を遠慮する、関白だ! 一天四界俺の物だ! 何を怯える、石田、増田に! 巷の童《わらべ》どもが悪口を云わば、用捨はいらない、切ってすてろ! 妻妾の数三十余人! それがどうした、少ないくらいだ! まだまだ美人を集めて見せる! 俺を殺生関白だという! 殺生ならぬ人間がどこにある! 政治に暗く人心離反し衆人俺を笑うという! 伏見の爺《おやじ》が悪いからだ! 爺が政治を執っているからだ。で俺は飾り物だ! 虚器を擁しているばかりだ! 不平もあろう、淫蕩にもなろう、残忍にもなろう、酷薄にもなろう! しかも関白をやめさせようとする。淀君の子を立てようとする。で、俺を迫害する! 僻むのは当然だ当然だ! ……騒げ、はしゃげ[#「はしゃげ」に傍点]、謡え、舞え! 京都の柔弱兒を驚かせてやれ! 注げ! 酒だ! イスパニアの酒だ! ……安南《あんなん》、交趾《こうし》から献上した、紅玉《ルビー》色をした酒を注げ! バタニア胡椒を酒へ入れろ! さぞ舌ざわりがよいだろう。酔が烈しく廻るだろう。……ソレソレこぼれた酒がこぼれた! スラスの懸布で拭くがいい。……鳥銃をもて、鳥銃をもて、往来の奴を撃ってやろう。象眼入の鳥銃がいい! 暹羅《しゃむ》から献じたあいつ[#「あいつ」に傍点]がいい。……沈香で部屋をくゆらせろ、伽羅で部屋をくゆらせろ! 龍涎香で部屋をくゆらせろ!」
金銀で飾った脇息に倚って、秀次はのべつに喚き立てる。
座に列なっている妻妾や侍女《こしもと》や、近習役や茶道衆や、幸若太夫の面々は、顔を見合わせて黙っている。
たった今女が死んだのである。懐刀で自害をしたのである。で、すっかり怯かされている。その上に例の酒乱が出て、秀次の態度が兇暴になった。果たしてどうなることだろう? で、黙っているのである。
狩野永徳の唐獅子の屏風、海北友松《うみ
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