の猿廻しが、お長屋で猿を廻していた。あんまりその様子が可愛かったので、多分の鳥目を猿廻しにくれた。これが縁の始まりで、その後しばしば女猿廻しとお八重は、あちこちのお長屋で逢って話した。その間にお八重はその女猿廻しが、聡明で大胆だということと、再々田安家のお長屋へ来て、猿を廻して稼ぐのは、単なる生活《くらし》のためではなく、何らか田安家そのものに対して、企らむところがあってのことらしいと、そういうことを見て取った。そこでお八重は女猿廻しを呼んで、自分の大事を打ち明けた。
「妾《わたし》は田安家の奥方様附の、腰元には相違ないけれど、その実は田安家に秘蔵されている、ある大切な器物を、盗み出すためにあるお方より、入り込ませられた者なのです。もっともその品を盗み出す以前《まえ》に、その他のいろいろの器物を、盗み出すのではありますけれど。……ついては其方《そなた》妾の加担者となって、盗んだ器物を機会を見て、妾から其方へ渡しますゆえ、其方その品を何処へなりと、秘密に隠しては下さるまいか。……是非にお頼みいたします。事成就の暁には、褒美は何なりと差し上げます」
 こう大事を打ち明けた。すると女猿廻しは考えこんだが、
「田安様の品物が盗まれました際、その責任は田安様の、誰人《どなた》に行くのでございましょうか?」と訊いた。
「それはまァ奥家老の松浦様へ」
「松浦へ! おお松浦頼母へ! ……では妾《わたし》あなた様の、加担者になるでございましょう! ……そうしてあの松浦頼母めを、切腹になと召し放しになと!」と女猿廻しは力を籠めて云った。
 それでお八重は女猿廻しのお葉が、何かの理由で松浦頼母に、深い怨みを抱いていることを、いち早く見て取ったが、しかしお葉がどういう理由《わけ》から、松浦頼母に怨みを抱くかを、押して訊こうとはしなかった。

   二つ目の独楽

 とにかくこうして二人の女は、それ以来一味となり、お八重から渡す隠語を手蔓《つて》に、時と場所とを示し合わせ、お八重の盗み出す田安家の器物を、女猿廻しのお葉は受け取り、秘密の場所へ人知れず隠し、今日に及んで来たのであった。
(隠語の紙片が頼母様の手へ入った! ではお葉も頼母様のお手に、引っとらえられたのではあるまいか?)
 これがお八重の現在の不安であった。
(いやいや決してそんなことはない!)
 お八重はやがて打ち消した。
(でも隠語を認めた紙片が、頼母様のお手へ入った以上、それを封じ込めてやったあの独楽が、頼母様のお手へ入ったことは、確かなことといわなければならない!)
 これを思うとお八重の胸は、無念と口惜しさに煮えるのであった。
(淀屋の独楽を奪い取れ! これがあの方のご命令だった。……淀屋の独楽を奪い取ろうとして、妾は二年間このお屋敷で、腰元奉公をしていたのだ。そうしてようやく目的を達し、淀屋の独楽を奪い取ったら、すぐに他人に奪い返されてしまった。何と云ったらいいだろう!)
 代々の将軍家から田安家へ賜わった、数々の器類を奪ったのも、目的の一つには相違なかったが、真の目的はそれではなくて、淀屋の独楽を奪うことであった。
 彼女は田安家へ入り込むや否や、淀屋の独楽の在場所を探した。と、教えられてきた淀屋の独楽と、そっくりの型の独楽を奥方妙子様が、ご秘蔵なされていることを知った。しかし一つだけ不思議なことには、その独楽は淀屋の独楽と違って、いくら廻しても独楽の面へ、一つとして文字を現わさなかった。
「では淀屋の独楽ではないのだろう」と思って、お八重は奪うことを躊躇した。ところが此頃になって老女の一人が「あの独楽は以前には廻す毎に、文字を現わしたものでございますが、いつの間にやらその事がなくなって、この頃ではどのように廻したところで、文字など一字も現われません」と話した。
「ではやはり奥方様お持ちの独楽は、淀屋の独楽に相違ない」とそうお八重は見極めをつけ、とうとうその独楽を昨日奪って、折柄塀外へ来たお葉の手へ、投げて素早く渡したのであった。今夜裏門にて――と隠語に書いたのは、望みの品物を奪い取ったのだから、もうこの屋敷にいる必要はない。でお葉に裏門まで来て貰って、一緒にこの屋敷から逃げ出そうと思い、さてこそそのように書いたのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、今までじっと俯向いて、膝頭を見詰めていた眼を上げて、頼母の顔を正視した。
「隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より?」
「あれか」
 すると松浦頼母は複雑の顔へ一瞬間、冷笑らしいものを漂わせたが、
「其方《そち》の恋人山岸主税が、わしの手にまで渡してくれたのよ!」
「え――ッ、まア! いえいえそんな!」
 物に動じなかったお八重の顔が、見る見る蒼褪め眼が血走った。

   お八重の受難

 そういうお八重を松浦頼母は
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