は、これまでの苦心も水の泡だ)
 こう思われるからであった。
(俺も沼の中の島へ行こう)
 ――頼母は飛加藤の亜流の後を追い、沼の方へ小走った。
 頼母が沼の縁へ行きついた時、彼の眼に不思議な光景が見えた。
 月光に薄光っている沼の上を、飛加藤の亜流という老人が、植木師風のお八重を連れ、まるで平地でも歩くように、悠々と歩いて行くのであった。重なっていた浮藻が左右に別れ、水に浮いて眠っていた鴨の群が、これも左右に別れるのさえ見えた。
(水も泥も深い沼だのに、どうして歩いて行けるのだろう?)
 超自然的の行動ではなくて、水中に堤防が作られていて、陸からはそれが見えなかったが、飛加藤の亜流には解《わか》っていたので、それを渡って行ったまでである。しかし頼母には解っていなかったので、呆然佇んで見ていたが、
(そうだ、飛加藤の亜流には、出来ないことはないはずだった。水を渡ることなど何でもないのだろう。……飛加藤の亜流にさえ従《つ》いて行けば、こっちの身も沼を渡れるだろう)
 頼母は沼の中へ入って行った。
 しかし数間とは歩けなかった。水が首まで彼を呑んだ。蛭、長虫が彼を目指し、四方八方から泳ぎ寄って来た。
「助けてくれーッ」と悲鳴を上げ、頼母は岸へ帰ろうとした。
 しかし深い泥が彼の足を捉え、彼を底の方へ引き込んだ。
 突然彼の姿が見えなくなり、彼の姿の消えた辺りへ、泡と渦巻とが現われた。
 と、ふいにその水面へ、一つの独楽が浮かび上った。頼母の持っていた独楽であって、水底に沈んだ彼の懐中から、水の面へ現われたのであった。独楽にも長虫はからみ付いていた。そうしてその虫は島を指して泳いだ。飛加藤の亜流とお八重との姿が、その島の岸に立っていた。そっちへ独楽は引かれて行く。

 閉扉《あけず》の館の二階では、なお血闘が行なわれていた。頼母の家来の数名の者が、死骸となって転がっていた。
 髪を乱し襟を拡げ、返り血を浴びた主税がその間に立ち、血にぬれた刀を中段に構え、開いている雨戸から射し込んでいる月光《ひかり》に、姿を仄かに見せていた。
 その背後《うしろ》に息を呑み、あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが立っていた。二人の女の持っている刀も、ヌラヌラと血にぬれていた。そうして二人の女の裾には、ほとんど正気を失ったところの、松女が倒れて蠢いていた。
 階段の下からは罵る声や怒声が、怯かすように聞こえてくる。
 しかし登っては来なかった。
 これ迄に登って行った者一人として、帰って来る者がないからであった。決死の主税に一人のこらず、二階で討って取られたからであった。
 しかしにわかにその階下から、主馬之進の声が聞こえてきた。
「お松、お松、お松は二階か! 心配するな、俺が行く!」
 つづいて勘兵衛の声が聞こえる。
「旦那、あぶねえ、まアお待ちなすって! ……とてもあぶねえ、うかつ[#「うかつ」に傍点]には行けねえ! ……行くなら皆で、みんなで行きやしょう! ……覚兵衛殿、覚兵衛殿、あんたが真先に!」
 しかし飛田林覚兵衛の声は、それに対して何とも答えなかった。
「お松、お松!」と主馬之進の声が、また悲痛に聞こえてきた。
「すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ!」
「勘兵衛放せ、えい馬鹿者!」
 つづいて階段を駆け上る音がし、階段口を睨んでいる主税の眼に、主馬之進の狂気じみた姿が映った。
「…………」

   人々の運命

(来たな!)と主税は雀躍《こおどり》したが、相手を身近く引寄せようとして、かえって部屋の隅へ退いた。
「あなた!」とさながら巾《きぬ》を裂くような声で、倒れている松女が叫んだのは、主馬之進が階段を上り尽くし、二階へ現われた時であった。
「お松!」と叫んで蹣跚《よろめき》々々、主馬之進はお松の方へ走り寄った。
「…………」
「…………」
 が、その瞬間あやめ[#「あやめ」に傍点]とお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、
「お父様の敵《かたき》!」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は叫び、脇差で主馬之進の胸を突くと、
「お父様の敵!」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を匕首《あいくち》で刺した。
 グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。
「ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく俺《わし》、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある! それも懺悔だ、お松へのお礼だ! ……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア貞操《みさお》を立て通したものだ! ……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか! ……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ! ……俺はただ名
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