――障害物の多い構内であった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は逃げるに苦心しなかった。木立をくぐり藪を巡り、建物の陰の方へあやめ[#「あやめ」に傍点]は走った。
 とうとう建物の裏側へ出た。二階づくりの古い建物は、杉の木立を周囲に持ち、月の光にも照らされず、黒い一塊のかたまり[#「かたまり」に傍点]のように、静まり返って立っていた。
 それは閉扉《あけず》の館であった。
 と、建物の一方の角から、数人の武士が現われた。
 飛田林覚兵衛と頼母と家来の、五人ばかりの一団で、こちらへ走って来るらしかった。
 すると、つづいて背後《うしろ》の方から、大勢の喚く声が聞こえてきた。
 主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とは振り返って見た。
 十数人の姿が見えた。
 主馬之進と勘兵衛と、覆面の武士と屋敷の使僕《こもの》たちが、こっちへ走って来る姿であった。二人は腹背に敵を受け、進退まったく谷《きわ》まった。
 一方には十年間開いたことのない、閉扉の館が城壁のように、高く険しく立っている。そしてその反対側は古沼であった。
 泥の深さ底が知れず、しかも蛇《くちなわ》や蛭の類が、取りつくすことの出来ないほどに、住んでいると云われている、荏原屋敷七不思議の、その一つに数えられている、その恐ろしい古沼であった。
 逃げようにも逃げられない。
 敵を迎えて戦ったなら、大勢に無勢殺されるであろう。
(どうしよう)
(ここで死ぬのか)
(おお、みすみす返り討ちに遇うのか)
 その時何たる不思議であろう!
 閉扉の館の裏の門の扉が、内側から自ずとひらいたではないか!
 二人は夢中に駆け込んだ。
 すると、扉が内側から、又自ずと閉ざされたではないか。
 屋内は真の闇であった。

   死ぬ運命の二人

 閉扉《あけず》の館の闇の部屋で、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とが寄り添っている時、館の外側では頼母や主馬之進や覚兵衛や勘兵衛たちが集まって、ひそやかな声で話し合っていた。
「不思議だな、消えてしまった」
 抜いた刀をダラリと下げて、さも審しいというように、頼母はこう云って主馬之進を眺めた。主馬之進も抜き身をひっさげたまま、これも審しいというように、四方《あたり》を忙しく見廻したが、
「一方は閉扉の館、また一方は底なしの古沼、前と背後《うしろ》とからは我々や覚兵衛たちが、隙なく取り詰めて参りましたのに、主税もあやめ[#「あやめ」に傍点]も消えてなくなったように、姿をくらましてしまいましたとは? ……不思議を通りこして気味のわるいことで」
「沼へ落ちたのではございますまいか?」
 覚兵衛が横から口を出した。
「沼へ落ちたのなら水音がして、あっし[#「あっし」に傍点]たちにも聞こえるはずで」と勘兵衛が側《そば》から打ち消した。
「ところが水音なんか聞こえませんでしたよ。……天に昇ったか地にくぐったか、面妖な話ったらありゃアしない」
「主馬!」と頼母は決心したように云った。
「主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]との隠れ場所は、閉扉の館以外にはないと思うよ。彼奴《きゃつ》らなんとかしてこの戸をひらき、屋内《なか》へ入ったに相違ない。戸を破り我らも屋内へ入るとしよう! ……それでなくともこの閉扉の館へ、わしは入ろうと思っていたのだ。淀屋の財宝を手に入れようとして、長の年月この荏原屋敷を、隅から隅まで探したが、この館ばかりは探さなかった。其方《そち》や松女が厭がるからじゃ! が、今夜はどうあろうと、屋内へ入って探さなければならぬ」
「兄上! しかし、そればかりは……」と主馬之進は夜眼にも知られるほどに、顔色を変え胴顫いをし、
「ご勘弁を、平に、ご勘弁を!」
「覚兵衛、勘兵衛!」と頼母は叫んだ。
「この館の戸を破れ!」
「いけねえ、殿様ア――ッ」と勘兵衛は喚いた。
「そいつア不可《いけ》ねえ! あっしゃア[#「あっしゃア」に傍点]恐い! ……先代の怨みの籠っている館だ! ……あっしも[#「あっしも」に傍点]手伝ってやったん[#「やったん」に傍点]ですからねえ!」
「臆病者揃いめ、汝《おのれ》らには頼まぬ! ……覚兵衛、館の戸を破れ!」
 飛田林覚兵衛はその声に応じ、閉扉の館の戸へ躍りかかった。
 が、戸は容易に開かなかった。
 先刻《さっき》は内側から自然と開いて、主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とを飲み込んだ戸が、今は容易に開かないのである。
「方々お手伝い下されい」
 覚兵衛はそう声をかけた。
 覆面をしている頼母の家来たちは、すぐに覚兵衛に手を貸して、館の戸を破りだした。
 この物音を耳にした時、屋内の闇に包まれていた主税とあやめ[#「あやめ」に傍点]とはハッとなった。
「主税様」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云った。
「頼母や主馬之進たちが戸を破って……」
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