日が暮れて、燈火《ともしび》が家毎に燈《とも》るようになった。その時ようやく門口が開き、一九は姿を現わしたが、見れば馬琴の式服を臆面もなく纏っている。
「アッハハハハ」と先ず笑い、
「式服拝借致しやした。おかげをもって近所合壁年始廻りが出来やした。いや何式服というものは、友達一人持って居れば、それで萬端役立つもので、決して遠慮はいりやせん、借りて済ますが得策でげす」
 自分が物でも貸したように平然として云ったものである。
 呆れた馬琴が何とも云わず、程経て辞して帰ったのは、笑止千萬のことであった。
 一九の父は駿府の同心、一生不遇で世を終わったが、それが一九に遺伝したか、少年時代から悪賢く、人生を僻んで見るようになった。独創の才は無かったが、しかし一個の奇才として当代の文壇に雄飛したことは、又珍しいと云うことが出来よう。

 真夏が江戸へ訪れて来た。
 観世音《かんぜおん》四萬三千日、草市、盂蘭盆会《うらぼんえ》も瞬間《またたくま》に過ぎ土用の丑の日にも近くなった。毎日空はカラリと晴れ、市中はむらむらと蒸し暑い。
 軽い歯痛に悩まされ、珍しく一九は早起きをしたが、そのままフラリと家を出ると日本橋の方へ足を向けた。
 橋上に佇んで見下せば、河の面てには靄立ち罩《こ》め、纜《もや》った船も未だ醒めず、動くものと云えば無数の鴎が飛び翔け巡る姿ばかりである。
「ああすがすがしい景色ではある」
 いつか歯痛も納まって、一九の心は明るくなっていた。
「ゆくものは斯《かく》の如《ごと》し昼夜をわかたずと、支那の孔子様は云ったというが、全く水を見ていると心持が異《ちが》って来る。……今流れている橋の下の水は、品川の海へ注ぐのだが、その海の水は岸を洗い東海道をどこ迄も外国迄も続いている。おおマア何と素晴らしいんだろう」
 いつもに似ない真面目な心持で、こんな事を考えている中、ふと旅情に誘われた。
「夏の東海道を歩いたら、まあどんなにいいだろうなあ」
 彼はフラフラと歩き出した。足は品川へ向かって行く。
 四辺《あたり》を見れば旅人の群が、朝靄の中をチラホラと、自分と前後して歩いて行く。駕籠で飛ばせる人もあり、品川宿の辺りからは道中馬も立つと見えて、竹に雀はの馬子唄に合わせ、チャリンチャリンと鈴の音が松の並木に木精《こだま》を起こし、いよいよ旅情をそそるのであった。
 川崎、神奈川、程ヶ谷と過ぎ、戸塚の宿へ入った頃には、日もとっぷりと暮れたので、笹屋という旅籠《はたご》へ泊ったが、これぞ東海道五十三次を三月がかりで遊び歩いた長い旅行の第一日であり、一九の名をして不朽ならしめた、「東海道中膝栗毛《とうかいどうちゅうひざくりげ》」の、モデルとなるべき最初の日であった。

剣道極意無想の構え
「もう俺も若くはない。畢世の仕事、不朽の仕事に、そろそろ取りかかる必要があろう」
 こういう強い決心の下に「八犬伝」に筆を染めたのは、文化十一年の春であった。
 この頃の馬琴の人気と来ては洵に眼覚しいものであって、戯作界の第一人者、誰一人歯の立つ者はなく、版元などは毎日のように機嫌伺いに人をよこし、狷介孤嶂《けんかいこしょう》の彼の心を努めて迎えようとした程である。
「八犬伝」の最初の編が一度市場へ現われるや、萬本|即座《たちどころ》に売り尽くすという空前の売れ行きを現わした。書斎の隣室へ朝から晩まで画工と彫刻師とが詰めかけて来て、一枚書ければ一枚だけ絵に描いて版に起こし、一編集まれば一編だけ、本に纏めて売り出すのであった、それでも読者は待ち兼ねて矢のような催促をするのであった。
 こうして四編を出した時、馬琴はにわかに行き詰まった。
「俺は身分は武士であったが、何故か武芸を侮ってこれ迄一度も学んだことがない。武芸を知らずに武勇譚を書く、これは行き詰るのが当然である」
 こう考えて来て当惑したが、そこは精力絶倫の馬琴のことであったから、決して挫折はしなかった。当時の剣客|浅利又七郎《あさりまたしちろう》へ贄《にえ》[#「贄」は底本では「贅」]を入れて門下となり、剣を修めようとしたのである。
 馬琴の健気《けなげ》なこの希望《のぞみ》を浅利又七郎は受け納《い》れた。
「先ず型を習うがよい」
 又七郎はこう云って自身手をとって教授した。型の修行が積んだ所で又七郎は又云った。
「極意に悟入する必要がある。無念無想ということだ」
「無念無想と申しますと?」
 馬琴にはその意味が解らなかった。
「敵に向って考えぬ[#「考えぬ」に傍点]ことだ」
「全身隙だらけにはなりますまいか?」
「そこだ」と又七郎は頷いたが、
「全身これ隙、それがよいのだ」
「ははあ左様でございましょうか」
「全身隙ということは隙が無いと同じことだ」
「ははあ」と馬琴は眼を丸くする。
「守りが乱《みだ》れ
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