反逆性のあることを、さながらに示した高い頬骨、精神的苦悶の著しさを、そっくり現わした満面の皺、断じて俺は妥協しない! こう言いたげな根張った顎、そうして頸は戦闘的に、牡牛のように太かった。
 顔全体を蔽うているのは、懐疑的の憂鬱であった。
「いかなる物をも信じないよ」
 こう云っているような顔であった。



「なるほど」と私は心の中で云った。
「従来の美学から云う時は、これは将《まさ》しく非審美的の顔だ。女や子供には喜ばれまい。だがしかしこの顔こそ、本当の人間の顔ではないか」
 基督《キリスト》の肖像と並べて見た。洵《まこと》に面白い対照であった。信仰、柔和、愛、忍従、これが基督の肖像に、充ち溢れている特徴であった。全体が細身で美しく、古典的に調っていた。力が非常に弱かった。虚無、憤怒、憎悪、反抗、これがユダの肖像に、行き渡っている特色であった。全体が野太く荒削りで、近代的に畸形であった。力が恐ろしく強かった。
「これは極端と極端だ、両立すべきものではない。師弟となるべきものではない。相克するのは当然だ。基督といえどもユダの上へ、君臨することは出来ないだろう。ユダといえども基督の上へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。[#「掴むがいい。」は底本では「掴むがいい、」]だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を動《そそ》られるだろう。そうして世間から迫害されるだろう。一生平和は得られないだろう」
 基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。
 一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、耶蘇《エス》基督との肖像を、三十枚の貨幣のその中から、苦心して選択をすることが出来た。まだ後十七枚残っていた。どれにも肖像が打ち出されてあった。それも間もなく知ることが出来た。
 モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。
「猶太《ユダヤ》の古代貨幣なら、猶太文字で署名がしてあるはず
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