味があるので、しかしこんなことを申し上げては、はなはだ失礼かもしれませんな」
 佐伯氏は玄関でこんなことを云った。タクシがやがて動き出した。
「左様なら」と私は帽子を取った。
「左様なら」と佐伯氏は微笑した。
 だが私にはその微笑[#「微笑」は底本では「微少」]が、ひどく気味悪く思われた。
 名古屋の夜景は美しかった。鶴舞公園動物園の横を、私のタクシは駛《はし》って行った。



 私のタクシは駛って行った。
 公園は冬霧に埋もれていた。
 公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。
 名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の住居《すまい》であった。
 そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。
 妻の粂子《くめこ》は起きていた。
「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き介《かか》えた。それから頬をおっ[#「おっ」に傍点]付けた。これが彼女の習慣であった。子供のように扱うのであった。
 二階の書斎へ入って行った。
「おい好い物を見せてあげよう。これはね、猶太《ユダヤ》の銀貨なのさ」
 財布から銀貨を取り出した。
「まあやけ[#「やけ」に傍点]に大きいのね」
 彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部|義歯《いれば》であった。笑うと義歯が露出した。それが私には好もしくなかった。だがその眼は可愛かった。眼尻の方から眼頭の方へ、一分ほど寄った一所の、下瞼が垂れていた。といって眼尻が下っているのではなかった。眼尻は普通の眼尻なのであった。ただそこだけが垂れていた。それがひどく[#「ひどく」に傍点]彼女の眼を、現代式に愛くるしくした。それは子供の眼であった。どこもかしこも発育したが、そこばっかりは子供のままに、ちっとも発育しなかったような、そういう愛くるしい眼なのであった。その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信頼してよかった。
 その眼で愉快そうに笑った。
 私はそこで説明した。
「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」
 紋章はみんな異《ちが》っていた。三十枚が三十枚ながら、別々の紋章を持っ
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