た。おりから逾越《すぎこし》の祝日《いわいび》で、往来には群集が漲っていた。家内では男女がはしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]いた。
 ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。
 イエス一人を庁内へ呼び、
「お前は猶太の王なのか?」
 彼は先ずこう訊いた。
「我国はこの世の国ではない」
 これがイエスの返辞であった。
「とにかくお前は王なのか?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」
 イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。
 玄関へ出て彼は云った。
「この男には罪はない」
 しかし群集は喜ばなかった。イエスを戸外《そと》へ引き出した。棘《いばら》の冕《かんむり》を頭に冠せ、紫の袍を肩へ着せ、そうして一整に[#「一整に」はママ]声を上げた。
「十字架に附けろ! 十字架に附けろ!」
 エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。
 草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。
 イエスは十字架へ附けられた。
 彼の苦しみは三時間つづいた。
「事は終った」と彼は云った。
 彼の生命《いのち》が絶えた時、殿堂の幕が二つに裂け、大地が顫え墓が開らけた。



 この頃ユダは橄欖山《かんらんざん》を、狂人《きちがい》のように歩いていた。
「彼は恐れず悲しまず、従容《しょうよう》として死んで行った。とにもかくにも凡人ではない。……では彼奴《あいつ》は預言者か?」
 ユダにはそうは思われなかった。
「彼奴は帰する所妄信者なのだ。ただ預言者だと妄信しただけだ」
 ユダはある歌を想い出した。それはイエスが幼《ちいさい》時から、愛誦したという歌であった。
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至誠《まこと》をもて彼道を示さん
彼は衰《おとろ》えず落胆《きおち》せざるべし
道を地に立て終るまでは
彼は侮どられて人に捨られ
悲哀《かなしみ》の人にして悩みを知れり
[#ここで字下げ終わり]
「なるほど」とユダは呟いた。
「彼奴の如何《いか》にも好きそうな歌だ。そっくり彼奴にあてはまる[#「あてはまる」に傍点]からな」
「侮どられて人に捨られぬ」
「ほんとに侮どられて捨られた」
「彼は
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