兵も傷めず、龍の口城と船山城とをそっくりと手中へ収めることが出来た。張良の知謀もこれ迄であろう」
「殿」と郷介は笑《えま》しげに、
「それも恋からでござります」
「おお左様々々、そうであったな。もう月姫はお前の物だ」
「はい、忝《かたじ》けのう存じます」
「今日は愉快だ。実に愉快だ」
「はい愉快でございます。しかしたった[#「たった」に傍点]一つだけ。……」
「心がかりの事でもあるか?」
「罪もない乞食《ものごい》の老人を、鎗玉の犠牲にしましたこと、決してよい気持は致しませぬ」
「戦国の常だ。構うものか」
「それは左様でございますとも。しかし、この頃何となく、鎗玉に上げられたあの老人が、私の実の父かのように思われてならないのでございさます[#「ございさます」はママ]」
「アッハハハハ馬鹿なことを申せ。それはお前の心の迷いだ」
「……私は捨児でございましたそうで?」
「うん、そうだ、当歳の頃、光善寺の門前に捨られていたよ」
やがて郷介はご前を退り自分の邸へ帰って来た。
と、意外な来客があった。
「おおお前は杢介ではないか?」
「はい」と云って杢介は懐中から書面を取り出した。
「私にとってはご主人様、貴郎《あなた》様にとりましてはお父上様が、磔柱へ付けられる前に、そっと私めに手渡した大事な書面でござります。是非とも貴郎様へ差し上げるようにと、仰せられましてござります」
「どれ」と云って郷介は書面を取って開いて見た。読んで行くうちに彼の顔は次第に血の色を失った。読んでしまうと眼を閉じた。そうして口の中で呟いた。
「案じた通りだ。……俺は親殺しだ。……恐ろしい運命。……坊主になろう。……」
7
しかし郷介が実父だと思った郷左衛門という侍は、実父ではなくて養父なのであった。そうして郷介の実父なるものはついに何者だか解《わか》らないのである。
郷介の養父は九州に名高い、龍造寺家の長臣であったが、養子郷介を貰い受けた時、ある有名な人相見が、親殺しの相があると喝破した。それを恐れて郷介の義父ははるばる備前まで遣って来て、光善寺へ郷介を捨たものである。
子を捨るような無慈悲な親が、立身出世するはずがない。先ず妻に先立たれ、つづいて主家を浪人した。どこへ行っても志を得ず、乞食《ものごい》とまで零落したが、捨た子のことが気にかかり、はるばる光善寺まで辿って来た時、今度の運命に遭遇したのである。
郷介の出家を耳にすると、浮田直家は莞爾とした。
「利口な奴だ。命冥加な奴だ。……余りに鋭い彼奴《きゃつ》の知恵、うかうかすると主人の俺が今度は寝首を掻かれようも知れぬ。で、月姫を結婚《めあ》わせて置いて、油断を窺い取って抑え首捻じ切ろうと思っているに、早くも様子を察したと見える。……利口な奴だ。命冥加な奴だ」
しかし直家のこの考えは一ヶ月経たずに裏切られた。彼の愛女月姫が行方不明になったのである。その盗手は郷介であった。子を捨る親、養父を殺す子、君を殺す家来、家来を計る君、昨日の味方は今日の敵、悲風惨憺たる戦国時代では、なまじ出家などするよりも賊になった方が気が利いていると、更に心機を再転させ、その手始めに恋する女を浮田の奥殿から奪ったのである。爾来彼は月姫共々大盗賊として世を渡ったが、月姫がはかなくなってからは、二人の間に設けた所の照姫というのを囮として、いぜんとして盗賊を働いた。
そうしていつも磔柱をその威嚇の道具としたが、間違いからとは云いながら、磔柱へ養父を懸けて、敵の手――いやいや自分の手をもって殺したというその事に対し、良心を苦しめていたからで、自己譴責の心持から、絶えず十字架を背負っていたとも云える。
底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「ポケット」
1925(大正14)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
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