それがし》計るに、東照神君の英霊の在《おわ》す駿州久能山に籠もられるこそ策の上なるものと存ぜられ申す。そこにて天下を窺《うかが》わせられい」
 実《げ》にもと思う武士達の顔をズラリと一渡り見廻してから彼は手綱《たづな》を掻い繰った。馬は粛々と歩を運ぶ。危険は瞬間に去ったのである。
 彼と西郷との会見について後年彼はある人に次のようなことを語ったことがある。
「薩摩屋敷へ行って見ると、すぐに一室へ案内された。しばらくすると西郷は洋服の足へ薩摩下駄を穿いて、熊次郎という僕《しもべ》を従え平気な顔をして現われた。庭から室へはいって来ると『先生おおきに遅刻し申した』こう云ってノッソリ座を構えたものだ。大事件を眼前に控えているようなそういった様子はどこにもない。俺も一向平気なものでしばらく雑談を交わせていたが、云うだけの事は云ってしまおうと俺は本題へはいって行った。懸河の弁を尽くしたものさ。すると西郷は膝へ手を置き黙って終いまで聴いていたが、
『いろいろ議論もございましょうが私が一身にかけましてお引き受けすることに致しましょう』と卒直に一言云ったものだ。これで会見はお終いだ。そして慶喜公のお命と江戸の命とが保証されたのさ」
 爾来、麟太郎の生活は、やっぱり危険で困難であった。がしかしそのつど大勇猛心と海のように広い度量とで易々《やすやす》と荒濤《あらなみ》を凌《しの》いで行った。彼はいつでも平和であった。晩年になるといよいよ益益彼の襟懐は穏かになった。参議兼海軍卿。こんなに高い栄誉の位置に一度は登ったこともある。従二位勲一等伯爵という、顕爵さえも授けられた。とはいえ天性洒落の彼は誇りも驕《たか》ぶりもしなかった。いつも門戸を開放し来るに任せて談笑した。官吏も来れば相場師も来る。力士も来れば茶屋の女将《おかみ》も来る。
 それはある日のことであったが、八百善《やおぜん》の女将が機嫌伺いに彼の屋敷を訪ずれた時、突然彼はこんなことを訊いた。
「女で、鼓の名人で、永生きをした者はなかったかえ? ……天保の時分にもう老人《としより》で明治の初年まで生きていた……」
「さあ」と女将は不思議そうに彼の顔色を窺いながらしばらくじっと考えていたが、
「志賀山初という名人が近年まで生きておりましたが」
「どんな様子の女だったね?」
「なかなか上品のお婆さんでした」
「それじゃその人かも知れないな……俺は三度まで逢ったんだがね。それもいつも往来でね」
「それで、何んですか、ご前とは、何か関係でもございましたので?」
「あるといえばあったようなもの、ないと云えばなかったようなものさ……ところで、初というその老女はどんな具合に死んだかな? 往来の上で野|倒《た》れ死にかな?」
「まさかそんな事もありますまい」女将の返辞は平凡であった。
 明治三十一年の十二月十九日に彼は死んだ。眼を瞑《と》じる時こう云ったと看護のある人が公開した。
「いよいよ俺ももういけねえ」と。これは恐らく聞き違いであろう。彼は恐らくこう云ったのであろう。
「いよいよ俺ももう聞けねえ」と。鼓が聞けないと云ったのであろう。
 姓は、勝。通称は、麟太郎。そして号は海舟であった。



底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
   1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
   1924(大正13)年1月1日号
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
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