来たのである。
「それにしても老女は何者であろう。そしていったい何んのためにいつまでも鼓を打っているのであろう」
彼は不思議に思いながら厨《くりや》から外へ出て行った。そして老女へ近付いた。彼の眼に真っ先に映ったのは、名匠の刻んだ姥《うば》の面のような神々《こうごう》しい老女の顔であった。その次に彼の眼に付いたものは彼女の持っている鼓であった。漆黒《しっこく》の胴、飴色の皮、紫の締め緒を房々と結んだやや時代ばんだその鼓は生命《いのち》ない木製の楽器とは見えず声のある微妙な生物《いきもの》のように彼の瞳に映ったのであった。
「ご老女」と麟太郎は呼びかけた。しかしその後はどう云ってよいか継ぎ穂に困《こう》じて黙ってしまった。すると老女は仮面《めん》のような顔をわずか綻《ほころ》ばして笑ったが穏《おだや》かな調子でこう云った。
「どうぞあなたのお芳志《こころざし》をお施こしなされてくださいまし」
「容易《たやす》いことです、進ぜましょう」麟太郎は袂《たもと》へ手を入れたが鳥目《ちょうもく》などは一文もない。まして家の内を探したところで金のありよう筈がない。彼は当惑して赤面したが焚きかけの飯の事を思い出してにわかに元気付いて云うのであった。
「鳥目《ちょうもく》とてはござらぬが、饑饉《ききん》のおりから米飯がござる。それもわずかしかござらぬによって俺《わし》の分だけ進ぜましょう」――急いで厨《くりや》へ駈け込んで湯気《いき》の上がっている米飯を鉢へ移して持って来た。すると老女は頷《うなず》きながら穏かな声でこう云った。
「私は欲しゅうはござりませぬ。そこに仆れている饑えた人にそれを差し上げてくださいまし」
見ればなるほど往来の上に子を負った女が仆れている。子供の方は死んでいるらしい。麟太郎は女の側《そば》へ行って鉢の飯を膝の前へ置いてやった。それから老女を振り返って見たが、もうそこには老女はいなかった。遙か離れた往来の人混みの中から鼓の音が、餓鬼道の巷《ちまた》に彷徨《さまよ》っている血眼《ちまなこ》の人達の心の中へ平和と慰安と勇気とを注ぎ込もうとするかのように穏かに鳴るのが聞こえては来たが……。
麟太郎はふとした動機からその時まで懸命に学んでいた支那の学問を投げ捨てて当時流行の蘭学を取ったがこれが開運の基となって彼の世界は展開された。彼はこんな順に立身した。
蛮書翻訳係。軍艦練習所教授方頭取。それから咸臨丸の船長として米国へ航海した事もあった。作事奉行格並に軍艦奉行。もうこの頃は麟太郎は四十を幾年《いくつ》か越していた。そうして彼の名声は既に日本的になっていた。ある時は彼は塾を構えて有為の人材を養成した。坂本竜馬、陸奥宗光、いずれも彼の塾生であった。
しかし喬木風強し矣《い》! 幕府の執政に疑がわれて「寄合い」の身に左遷された。
ちょうどこの時分の事であった。欝勃《うつぼつ》たる覇気と忿懣とを胸に貯《たくわ》えた麟太郎は上野の車坂を本所の方へ騎馬でいらいらと走らせていた。燈火の点《つ》き初めた夕暮れ時で往来には人々が出盛っていた。人声、足音、物売りの叫び。やかましいほど賑やかであった。その時、騒然たる物の音を縫って鼓の音が聞こえて来た。麟太郎は思わず馬を止めて音のする方へ眼をやった。三十年前に一度見た姥の面のような顔を持った上品な老女が彼を見ながら鼓を打っているではないか。彼の心は静かに和《なご》み海のように胸が開けて来た。
翌日彼は召し出されて軍艦奉行を命ぜられたのである。
二
その後麟太郎はもう一度だけ鼓の持ち主に邂逅《いきあ》った。明治元年三月十三日のしかも日中のことである。この頃大江戸は釜で煮られる熱湯のように湧き立っていた。十五代続いた徳川家にようやく没落の悲運が来て、将軍|慶喜《よしのぶ》は寛永寺に屏居《へいきょ》し恭順の意を示している一方、幕臣達は隊を組んで安房、下総、会津等へ日に夜に脱走を企てる。征討大総督|有栖川宮《ありすがわのみや》は西郷隆盛を参謀として東山北陸東海の、三道に分れて押し寄せて来る。二百数十年泰平を誇ったさすが繁華な大江戸も兵燹《へいせん》にかかって焼土となるのもここしばらくの間となった。贅沢《ぜいたく》出来るのも今のうちだ、それ酒を飲め女を買えと、町人達まで自暴自棄となって悪事|三昧《ざんまい》に耽けるようになった。切り取り強盗《おしこみ》、闇討ち放火《つけび》、至る所に行なわれ巷の辻々には切り仆された武士の屍《かばね》が横たわっていたりまた武家屋敷の窓や塀には斬奸状が張られてあったり、二百万人を包容していた幕府所在地の大きな都には平和の影さえも見られなくなった。麟太郎は軍事取り扱かいという重大の役目を持っていたが強硬なる非戦論の主謀者として逸《はや》り立つ旗本
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