八万騎を鎮撫しなければならなかった。彼は官軍に内通している獅子《しし》身中の虫と見られ、ある夜のごときは数十人の兵にその身辺を取りまかれ鉄砲の筒口を一斉に向けられ硝煙に包まれたことさえあった。
「慶喜の生命《いのち》は助けなければならない。江戸を兵燹《へいせん》から守らなければならない。好い策はないか。よい策はないか」と、寧日のない騒忙の裏にこの事ばかりを考えた。
「西郷に会おう。西郷は知己だ。会って赤誠《せきせい》を披瀝しよう」これが終局の決心であった。こう決心はしたものの心にはかなりの不安があった。多智大胆権謀無双、隼《はやぶさ》のような彼ではあったが、西郷との会見は重荷であった。
当日になると式服を纒《まと》い馬上に鞭を携えて薩州の邸へ歩ませた。芝高輪《しばたかなわ》まで向かう間に彼の眼に触れる事々物々は焦心の種ならぬはない。兵を近在に避けようとして荷車を曳く商人《あきゅうど》の群れ。刀の柄《つか》に手を掛けて四方に眼を配りながらノシノシ歩く家人《けにん》の群れ。店を開けている家は稀《まれ》である。陽はカンカンと照ってはいるが街々の姿は暗く見える。
突然、横町から十人余りの幕兵が塊《かた》まって現われたが、互いに耳打ちをしたかと思うと麟太郎の行く手を遮《さえぎ》った。そしてその中の頭領らしい一人の武士が声を掛けた。
「しばらくお待ちくだされい!」と。
麟太郎は静かに馬を止めた。それから彼らを見廻したが、「諸君の風貌は逼《せま》ってござるが、そもそも何事が起こりましたかな?」鋭い口調で詰問した。
彼らはそれには答えなかった。
「そういうご貴殿こそどこへ参られるな?」
「君命を帯びて薩州邸まで……」
「江戸開け渡しのご相談にか? フン」と一人が嘲笑った。麟太郎の張り切った神経はこの「フン」のために切れそうになった。怒りの声を張り上げて一句嘲罵を報いようとした。その刹那聞こえて来たものが、例の鼓《つづみ》の音である。春陽のようにも温かく松風のようにも清らかな、人の心を平和に誘う天籟《てんらい》のような鼓の音!
麟太郎の心に余裕が出来た。彼は穏かに微笑して訓すような口調でこう云った。
「諸君の身上はお察し申す。ただし、某《それがし》の考えはいささか諸君とは異なってござる。江戸を開くも開かぬも皆将軍家のおためでござる。全く他に私心はござらぬ――諸君のために某《
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