も無理には嚇《おど》せないからね」お岩の声は憂鬱《ゆううつ》であった。
「あべこべ[#「あべこべ」に傍点]に私達が嚇されます」小平の声も憂鬱であった。
「ねえ小平さん」
とお岩の声が云った。「もう祟《たた》るのは止めようよ」
「止むを得ませんね、止めましょう」
お岩の声が恥しそうに云った。
「妾《わたし》、そこでご相談があるの。……濡衣を真実《ほんと》にしましょうよ」
「え」と云った小平の声には、寧《むし》ろ喜びが溢れていた。「あの、それでは、私達二人が」
「そうよ、夫婦になりましょうよ」
「大変結構でございまする」
「これには伊右衛門も驚くだろうね」
「こんな事でもしなかったら、彼奴《あいつ》は吃驚《びっく》りしますまい。……だが最《も》う私達は伊右衛門のことなど、これからは勘定に入れますまい」
此処で声が一時止んだ。
骨の軋《きし》む音がした。
板戸を隔てた二つの死骸がどうやらキッスをしたらしい。
ユラユラと板戸は動き出した。
「嬉しいのよ、小平さん」
「ああ私も、お岩さん」
ユラユラと板戸は流れ出した。
南無幽霊頓生菩提《なむゆうれいとんしょうぼだい》!
お岩さんとそうして小平さん、
彼等は正《まさ》しく成仏した。
下流の方へ流れて行った。
鬼火だけが燃えていた。
真暗の夜を青い顔をして、上下左右に躍っていた。
何を一人で働くのだ。
消えろ消えろ! とぼけた[#「とぼけた」に傍点]鬼火だ!
幕の閉じたのを知らないのか。
底本:「怪奇・伝奇時代小説選集2」春陽文庫、春陽堂書店
1999(平成11)年11月20日第1刷発行
初出:「大衆文藝」
1926(大正15)年6月
入力:阿和泉拓
校正:noriko saito
2007年11月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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