! 聖典とは?」
「それには諸※[#二の字点、1−2−22]《もろもろ》の尊い智恵が記されてあるのでございます」
「そうして誰が盗んだのだ?」
「旅籠屋《はたごや》の主人でござります」
「その旅籠屋はどこにある!」
「林の奥でござります」
「では俺が取り返してやろう」
「どうぞお願い致します。どうぞお願い致します」
「それにしても不思議だな。どうして日本語を知っておるな?」
「それには訳がございます。いずれお話し致します。聖典をお取り返しくださいませ」
「心配するな。取り返してやる」
 紋太夫は林を分け奥へ奥へと進んで行った。
「重ね重ね不思議なことだ。いろいろの事件にぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]わい」
 行っても行っても深い林は容易に尽きようとはしなかった。

        十六

 建物の様子でそれと知れる土人|旅籠《はたご》の前まで来た時、その戸口から一人の土人が、笑いながら現われた。筋骨逞しい若者である。
 何か紋太夫へ話しかけたが、土人語で要領を得ない。
 そこで、度々の経験で、今はすっかり熟達している、例の手真似で紋太夫はその若者へ話しかけた。
「お前の所は旅籠屋かな?」「はいさようでございます」
「どうだ俺を宿《と》めてくれぬか?」「どうぞお宿まりくださいますよう」
「どんな物を食わせるな」「いろいろご馳走致します」
「で、上等の部屋はあるか」「聖典の間へお宿めしましょう」
「聖典の間? おおそうか」紋太夫は頷《うなず》いた。
「では俺を宿めてくれ」「さあ、おいでなさりませ」
 若者の後に従って紋太夫は家内《なか》へはいって行った。はいった所に部屋があり、部屋には無数の土人がいた。ガヤガヤ喚きながら酒を飲んでいる。残忍酷薄な表情をした見るから恐ろしい土人どもである。
 それからさらに二つ三つ大きな部屋を通ったが、やがて通された部屋を見ると、別に変わったこともない。床と天井とが石で出来ている。床に巌丈な寝台がある。寝台の側《そば》に卓があり、その上に書物《ほん》が載せてある。羊皮紙で作った厚い書物で、表紙には漢文字で「明智篇」と記されてある。
「はてな」と呟くと紋太夫はまず寝台へ腰を下ろし、それから書物《ほん》を取り上げた。書かれてあるのは漢文であった。
「范邸《はんたい》は浚儀《しゅんぎ》の令たり。二人絹を市に挟《さしはさ》み互いに争う。令これを両断し各※[#二の字点、1−2−22]一半を分《わか》ちて去らしめ、後人を遣わして密《ひそ》かにこれを察せしむ。一人は喜び、一人は慍《いきどお》る色あり。ここにおいて喜ぶ者を捕らう。はたして賊也」
「魏の李恵《りけい》、雍州《ようしゅう》に刺史たり、薪を負う者と塩を負う者とあり。同じく担《たん》を弛《ゆる》めて樹蔭に憩う。まさに行かんとして一羊皮を争う。各※[#二の字点、1−2−22]背《せな》に藉《し》ける物と言う。恵がいわく、これ甚だ弁じ易しと。すなわち羊皮を席上に置かしめ、杖をもってこれを撃《う》つ。塩屑《えんせつ》出《い》ず。薪を負う者すなわち罪に服す」
「相伝《あいつた》う、維亭《いてい》の張小舎、善《よ》く盗《とう》を察すと。たまたま市中を歩く。一人の衣冠甚だ整いたるが、草を荷《にな》う者に遭うて、数茎を抜き取り、因《よ》って厠《かわや》にゆくを見る。張、その出《い》ずるをまって、後ろよりこれを叱《しっ》す。その人|惶懼《こうく》す。これを掬《きく》すれば盗なり」
「またかつて暑月において一古廟の中に遊ぶ。三、四|輩《はい》あり。地に蓆《むしろ》して鼾睡《かんすい》す。傍《かたわ》らに西瓜あり。劈開《へきかい》して未だ食わず。張また指さして盗と為《な》して擒《とら》う。はたしてしかり。ある人その術を叩く。張がいわく、厠に入るに草を用う。これ無頼の小人。その衣冠も必ず盗み来たるもの。古廟に群がり睡るは、夜労して昼疲る。西瓜を劈《つんざ》くはもって蠅を辟《さ》くるなりと」
「なるほど」と紋太夫は呟いた。
「支那の昔の賢人の逸話を書き集めた書物《ほん》と見える。昔の人は利口であった。……老婆の話しの聖典とは恐らくこの書物のことであろう。この書物をさえ手に入れればここに止どまる必要はない」
 紋太夫は立ち上がった。それからツカツカと戸口へ行った。戸には錠が下ろされてある。外から下ろされているのである。見廻すと一つ窓があった。
 彼は窓へ飛んで行った。窓にも錠が下ろされてある。外から下ろされているのである。彼は捕虜《とりこ》にされたのだ。完全に監禁されたのである。
 彼は思わず唸ったが、どうする事も出来なかった。再び寝台へ腰を下ろし、心を静めて考えようとした。その時、石の天井が徐々として下へ下がって来た。
「あっ」と紋太夫は声を上げた。「南無三宝! 計られた! さ
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