待っている由《よし》、危険千万でござるゆえ、大坂上陸はお止めなされとな。しかし頭領は聞かれなかった。――近頃南洋のある国よりある地理書を城代まで献上致した風聞じゃ。是非とも地理書を奪い取り、書かれた中身を一見せねばこの紋太夫胸が治まらぬ――こう云って無理に上陸したところ、はたして町奉行手附きの者に、騙《たば》かられて捕縛《めしと》られ、無残にも刑死をとげられたのじゃよ」
二
その時、あわただしく胴の間から一人の部下が飛んで来たが、月の光のためばかりでなくその顔はほとんど真っ蒼であった。
「どうした?」
と十平太は訝《いぶか》し気に聞いた。
「大変なことが起こりました」胸を拳で叩きながら、「頭領の部屋に、頭領が……」
「なに?」
と十平太は進み出た。
「えい、あわてずにしっかり[#「しっかり」に傍点]云え!」
「はい、頭領がおられます! はい、頭領がおられます。いつものお部屋におられます」
「馬鹿!」
と海賊の塩風声《しおかぜごえ》、十平太は浴びせかけたが、
「首を打たれた頭領が何んで船中におられるものか。嘉三貴様血迷ったな!」
嘉三と呼ばれたその男は、そう云われても頑強《かたくな》に、頭領がいると叫ぶのであった。
「いえ血迷いは致しませぬ。この眼で見たのでございます」
「そうか」ととうとう十平太も不審の小首を傾《かし》げるようになった。と、見て取った手下どもは一時にゾッと身顫《みぶる》いをした。迷信深い賊の常として、幽霊を連想したのであった。
十平太は腕を組んでしばらく考えに沈んでいたが、バラリ腕を解くと歩き出した。
「よろしい、行って確かめてやろうぞ」
胴の間の頭領の部屋は、諸国の珍器で飾られていた。
印度《インド》産の黒檀の卓子《テーブル》。波斯《ペルシャ》織りの花|毛氈《もうせん》。アフガニスタンの絹窓掛け。サクソンの時計。支那の硯。インカ帝国から伝わった黄金《こがね》作りの太刀や甲《かぶと》。朝鮮の人参は袋に入れられ柱に幾個《いくつ》か掛けてある。
と、正面の扉《と》が開いて、十平太がはいって来た。すると部屋の片隅のゴブラン織りの寝台《ねだい》から嗄れた声が聞こえて来た。――
「おお十平太か、よいところへ来た。ちょっとここへ来て手伝ってくれ」
頭領小豆島紋太夫の声に、それは疑がいないのであった。
はっ[#「はっ」に傍点]と十平太は呼吸《いき》を呑んだが、さすがに逃げもしなかった。
「頭領」と声を掛けながら寝台《ねだい》の方へ突き進んだ。見れば寝台に紋太夫がいる。広東《カントン》出来の錦襴の筒袖に蜀紅錦の陣羽織を羽織り、亀甲《きっこう》模様の野袴を穿き、腰に小刀を帯びたままゴロリとばかりに寝ていたが、頸《くび》の周囲《まわり》に白布で幾重にもグルグル巻いているのがいつもの頭領と異《ちが》っている。
両手で頸を抑えながら、大儀そうに紋太夫は立ち上がった。
「頸へさわっちゃいけないぜ」
嗄《しわが》れた声で云いながら、黒檀の卓の前まで行くとドンと椅子へ腰掛けた。
「頭領」
と十平太は立ったまま紋太夫の様子を眺めていたが、「いつお帰りになられましたな? そうして頸はどうなされましたな?」
「そんな事はどうでもよい。これちょっと手伝ってくれ。隠《かく》しから、書籍《ほん》を出してくれ」相変わらずいかにも呼吸《いき》苦しそうに紋太夫は云うのであった。
で、十平太は書籍《ほん》を出した。黒い獣皮で装幀された厚い小型の本である。
「これだよ、地理書は! ああこれだよ!」
嬉しそうに紋太夫は笑い出した。「アッハハハウフフフフアッハハハハ。ヒヒヒヒヒ」
音はあっても響きのないいかにも気味の悪い笑声で、聞いているうちに、十平太は身の毛のよだつような気持ちがした。
「まるでこれでは幽霊だ。それに何んのために白い布《きれ》を頸にあんなに巻いているのだろう」
口の中で呟いて、十平太は見詰めていた。
「ああそうだよ。これが地理書さ。……上陸すると俺はすぐに城代屋敷まで行ったものさ。かなり厳重な構えであったが、忍ぶことにかけては得意だからな。うまうま盗み出したというものさ」
「しかし頭領」と十平太は椅子に腰をかけながら、「あなたは町奉行手附きの者に捕らえられた筈ではありませんか」
「うん」
と紋太夫は頷《うなず》いたが、「いかにも俺は捕らえられ住吉の海辺で首を切られたよ。が、この通りここにいる。そうしてお前と話している。ハハハハ、これでいいではないか。ただし首へはさわるなよ。ひょっと[#「ひょっと」に傍点]落ちると困るからな」
書籍《ほん》を取り上げ頁《ページ》を翻《ひるがえ》し、じっと一所《ひとところ》を見詰めたが、ガラリ言葉の調子を変え紋太夫はこう云った。
「聞け十平太! よく聞くがい
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