った。権はしばらくじっ[#「じっ」に傍点]としていたが、やがて起き上がると廊下へ出、主屋の方へ小走り出した。廊下が丁字形になっている所へ来た。左へ曲がったとたん、二人の捕り方にぶつ[#「ぶつ」に傍点]かった。顔を見られた。

    懺悔の妻

「曲者!」
 と一人の捕り方が正面から組付いて来た。
「わッ」
 と捕り方は悲鳴をあげて仆れた。脇腹から血が流れ出ている。
「汝《おのれ》!」
 ともう一人の捕り方が横から躍りかかった。権の匕首《あいくち》が捕り方の咽喉へ飛んだ。権は、仆れてノタウチ廻る捕り方を見すてて走った。
「お頭《かしら》アーッ」
 と呼ぶ声がした。行く手の降り口から、囲炉裡|側《ばた》で、片耳のない武士の話をしていた絹商人が、顔を出していた。
「七五郎か、他の奴らは?」
「さっきまで囲炉裡側で、五人揃って、お頭のおいでになるのを待っていましたが、捕方《いぬ》どもが飛び込んで参りましたのでチリヂリバラバラ、この家のあちこちに……」
「集めなけりゃアならねえ。……一つに集まって三国を越して越後境いへ!」

 主屋と離れ、崖の中腹に、懸け作りになっている別館《はなれ》が一棟、桜や椿や朴《ほお》の木に囲まれ、寂然として立っていた。主屋と別館《はなれ》とをつないでいるものは、屋根を持っている渡り廊下で、真珠のような月の光が、木の間を洩れて廊の欄干へ、光の斑を置いていた。別館の一間に寝ているのは、耳を病んでいる松乃であった。枕もとには水を張った小桶が置いてあり、その横には良人《おっと》の内記《ないき》が、心配そうにして坐っていた。
 この優しい親切な良人は、寝もしないで妻の介抱をしているのであった。
「だんだん騒ぎが烈しくなるが、何んだろう?」
 長岡藩の槍奉行、坂田内蔵之丞の総領内記は、妻が眠るようにと、わざと燈を細めた行燈を無心に見詰め、耳をかしげながら呟いた。
 松乃は、痛む左の耳を上にし、反対の頬を枕にうずめ、夜具の襟から、蒼白の顔を覗かせ、眼を閉じていた。さっき、鋭い呼笛《よびこ》の音《ね》がし、つづいて主屋の方から、悲鳴や、襖、障子を蹴ひらく音や、走り廻る音が聞こえて来、僕《しもべ》の三平|翁《じいや》が、あわただしく様子を見に行ったがまだ帰って来ない。――これらのことも心にかかっていたが、しかし彼女には、もっと心にかかることがあった。
 それは、こ
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