で、誰でもが交際《つきあ》わない種族なのであった。
「犬神に憑かれたらおしまいだ」
 そう人々は云いさえした。
 その種族の娘と夫婦《ふうふ》になる。これはとうてい弥兵衛にとっては我慢のならないことであった。
 が家《うち》へ帰って見て、もう犬神に憑かれていることを、弥兵衛は感ぜざるを得なかった。
 娘と恋仲になった日に、母が悶死したということであった。
 弥兵衛はすぐに出家してしまった。そうして諸国を巡《めぐ》った後、江戸へ出て浅草へ行った。
 と、おきたが茶汲み女として、美貌と艶姿とで鳴らしているのを見た。
 恐怖と懊悩とが彼の心を焼いた。
 彼は毎日難波屋の前を、往来しておきたを眺めたり、彼女の愛人として知られていた、貝塚三十郎の後をつけたりした。
 おきたを写した一枚絵を、それからそれと買いもした。
 死を前にしてこれだけのことが、弥兵衛――源空の記憶に上った。
(わしも結局|憑《つ》かれたんだ。こんなように憑かれるくらいだったら、いっそおきたと夫婦になった方が……
 いやそうではないそうではない! ……そんな小さな問題ではない! ……宗教《おしえ》の道へ入ってみて、人間は一切平等だという、真理《まこと》をわしは知ることが出来た。犬神だのとっつき[#「とっつき」に傍点]だのと、同じ日本の人間を、差別視するということの、不合理であるということも知った。わしはあの時あのおきたと、夫婦になればよかったのだ。わしがおきたと夫婦になっていたら、おきたはこんなあばずれ[#「あばずれ」に傍点]女に、決してなってはいなかっただろう! ……因果応報! 悪因悪果! わしは快く殺されよう!)
 そこで彼は大声で叫んだ。
「わたしは快く死にまする! さあさあお斬りくださいまし!」
 彼は立ったまま合掌し、眼をつむって静まっていた。
 でもいつまで待っていても、刀が彼の身へは触れなかった。
 そうして彼が眼をあけた時には、おきたと三十郎との姿は見えず、野面《のづら》の芒《すすき》を風がそよがし、月が照っているばかりであった。

 このことが絶好の教訓《いましめ》となって、源空は仏道に精進し、そのため次第に位置も進み、やがて一箇寺の住職となり、老年となるや高僧として、諸人に渇仰《かつごう》されるようになったが、そうなってからも疑問だったのは、
(あの時どうして三十郎のために、わしは命を取られなかったのだろう?)
 という、そういうことであった。
 しかしもし彼が雲水となって、奥州塩釜の里へ行き、なにがしという尼寺を訪ね、法均《ほうきん》という尼の口から、身の上話を聞いたなら、疑問は氷解したことと思う。
 法均は人へこう話すそうな。
「わたしが難波屋おきたといって、浅草の境内におりました頃、あるお侍さんに誘われて、道行きをしたことがございました。するとわたしたちの後をつけて、それ以前にわたくしと縁のありました、若い新発意が追って参りました。そこでわたしはお侍さんに勧めて、新発意を殺させようといたしました。ところがどうでしょうその新発意は、街道に立って合掌し、『わたしは快く死にまする。どうぞお斬りくださいまし』と、こう申したではありませんか。それはまアどうでもよいとして、そう云いました時の新発意の姿が、浅草寺にある仏様の、ご一体そっくりに見えましたので、わたくしはお侍さんの袖を引いて、いそいで逃げてしまいました。ところが貝塚[#「貝塚」は底本では「見塚」]三十郎という、そのお侍さんの眼には新発意の姿が――俗名は弥兵衛、法名は源空――その人の姿がこれも仏様の、不動明王に見えましたそうで、『わしの過去の罪業を不動様が責めるわ責めるわ』と云って、間もなく狂死いたしました。そこでわたしは仏門に入り」……と。
 ――けだしあの時源空が、人間無差別の悟りに徹し、死を覚悟した尊い態度[#「態度」は底本では「熊度」]がおきたや三十郎の心を打って、死をまぬかれたものらしい。



底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
   1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
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