へ現われると教えている。
使女B 呪詛われた神経とは何んのことでござります。
女子 私にもよく解らない程だもの、何んでお前方に解るものかね。ただ、私の心持ちが、私の智識を打ち破り、智識以上の大きい力で、今夜のことを私に教えている。
使女A 今夜のことを教えている?
女子 今夜あの老人が、音楽堂へ現われると云うことを、何気なくこの私に教えている。
使女A それがお解りのくらいなら、それ以上のこともお解り遊ばすでござりましょう。
使女B 誰が最後の勝利者か、誰がお嬢様をお貰い遊ばすか、それもお嬢様にはお解りなさる筈ではござりませぬか。
女子 それが解るくらいなら、世の中の人は、不幸に沈むことはない。
使女A 解らないのでござりますか。
女子 私の身の上は、私には解らぬもの……。(三人暫時無音。遙かに音楽堂よりオーケストラの音聞こゆ)
使女B オーケストラの音が、つなみ[#「つなみ」に傍点]のように聞こえます。
使女A 音楽のつなみ[#「つなみ」に傍点]のようなあのオーケストラの後が、いよいよ優勝者同志で、最後の競技をするのでござります。
使女B (女子を振り返り)お嬢様にもあのオーケストラの音が聞こえますか。
女子 ええ、ええ、よく聞こえている。(耳を澄まし)そしてあのオーケストラの中で、二つの音が恐い程はっきりと聞こえて来る。……二つの音が。
使女A どんな音でござります。
女子 バイオリンの音と、銀の竪琴の音。
使女B 私にはただ、海のどよめきのような音よりは外に何も聞こえは致しませぬ。
女子 銀の竪琴の音は、つむじ風のように、バイオリンの音を吹き消して行く。
使女A そのバイオリンは誰が弾いているのでござりましょう。
使女B 若様ではござりますまいか。
女子 バイオリンの音は、深山鈴蘭が谷の陰で泣いているように細い細い声となった。
使女A 銀の竪琴は誰が弾いているのでござりましょう。
使女B あの怪しい老人が弾いているのではありますまいか。
女子 銀の竪琴の音は、暗《やみ》の中を荒れ狂っている、赤い焔のように鳴っている。……暗の中の血薔薇のように。(オーケストラの音|止《や》む)
使女A オーケストラが止みました。
女子 (急に窓に行き)ほんに、オーケストラはもう止んだ。(時を告ぐる鐘の音、音楽堂より聞こえ来る)
使女 お聞き遊ばせ、鐘が鳴っておりまする。あの鐘が二度鳴って、三度目に鳴る時は、三組残った優勝者の中最後に打ち勝った一人へ、月桂冠を与える時でござります。
使女A その時、音楽堂の頂上の窓へ赤い燈が点ぜられるのでござります。
使女B その時喜びの太鼓の音が、音楽堂のまん中で轟き渡るので、ござります。
使女A その時、近在から集って来た美しい少年等は声を揃えて、ほめ歌[#「ほめ歌」に傍点]を歌うのでござります。
使女B その時、月桂冠を得た名誉の音楽家は、少年等に取りかこまれ、音楽堂を立ち出でて、海へ出るのでござります。
使女A 海には紅い花で飾った舟が夜眼にも美しく浮かんでおります。
使女B 私共はその舟を婚儀の舟と呼びたいのでござります。なぜと申しますと、月桂冠を貰った音楽家は、その舟に打ち乗って、この館へ参られます。――そしてお嬢様と御婚礼を遊ばすのでござります。
使女A お嬢様と御婚礼を遊ばすのでござります。
使女B (海上の水鳥を眺め)あの水鳥が婚礼の舟の先ぶれのようではござりませぬか。
使女A (同じく海上の水鳥を眺め)私もそのように思っておりました。あのように列を造って泳いで来る様子が、まるで婚礼の舟が引き連いて来るようでござります。
女子 (海上の水鳥を眺め)いえいえ、私には屍を送る葬式の舟のように見えるぞえ、音も立てず、しめやかに泳ぐ様子が、白無垢を着て悲しげに続く弔者の姿そっくりではないかえ。(空の雲を眺め)そして、あの気味の悪い雲が、まだ動かずに音楽堂の頂上で、葬式の列を見送っている。(第二の鐘鳴る)あれ! もう第二の鐘が鳴る。
使女B ほんに第二の鐘がもう鳴ります。
使女A 第三の鐘が鳴るのも間がござりますまい。(三人無音にて、窓外の音楽堂を眺む。静。――やがて第三の鐘が鳴る)
使女B あれあれ、第三の鐘の音が……。
使女A 第三の鐘の音が……。
(音楽堂の頂上に赤き灯《ひ》点ぜらる)
女子 あれ、あれ、紅い火が。(とよろめく)
使女A ほんに赤い灯……赤い灯がつきました。
使女B 赤い灯、赤い灯……。
女子 (寝台に仆れ)私は……ああ、ああ私は……。
使女A (女子を助け起こし)お嬢様!
女子 ――赤い灯、赤い灯……私は……。
使女B お嬢様!
女子 私はもう……誰れかの……。
使女A お嬢様、お嬢様?
女子 いや、いや、いや……。(と泣き沈む。二人の使女途方に暮れて無音。やや長き間の静寂。やがて音楽堂より憂いを含める弔鉦の音聞こゆ)
使女B (窓に馳せ行き)あの悲しげの鉦《かね》の音。
使女A (同じく窓に馳せ行き)歓びの太鼓の音は響かずに、いまわしい鉦の音が聞こえるとは、どうしたわけでござりましょう。
使女B あの鉦の音は、死んだ人を弔う音でござります。それも、思わぬ凶事に身を殺した人のために、つき鳴らされる鉦の音でござります。
(鉦の音、益々悲しげに響き、今まで点ぜられ居し赤き燈火消ゆ)
使女A お嬢様、お嬢様、ごらん遊ばせ、赤い灯が消えてしまいました。
女子 (寝台より起きて窓に馳せ行く)ほんに赤い灯が消えて、月の光ばかりが音楽堂の丸屋根を照らしている。……赤い灯が消えて、(鉦は益々悲しげに鳴る)ああ、そしてあの悲しげの弔いの鉦の音が、震え震えて鳴っている。……凶事の鉦が。
(青き燈火、以前の場所に点ぜらる)
使女B あれ青い灯が!
使女A 赤い灯の代りに点《つ》いている。
女子 ほんに青い灯が……どうしたと云うだろう、死んだ人の魂のために点ぜられる青い灯が……音楽堂に点いている。そして弔いの鉦がつき鳴らされ……。(と海を眺め)あれ、今まで見えていた水鳥の列が、どこへ行ったかもう見えぬ。
使女B (空を見上げ)そして怪しい雲も消えてしまいました。
使女A 死んだように影も形もなく消えてしまいました。(鉦なお鳴りやまず)
女子 まだ鳴っている、まだ鳴っている。
(玄関の方にて駒の蹄の音。嘶《いななき》。やがて間もなく従者いそがわしく出場)
従者 お嬢様は此処においででござりましたか、今音楽堂で大変なことが出来《しゅったい》致してござります。
女子 (従者を凝視し)今鳴っている弔いの鉦の音が、その一大事を告げているのではあるまいか!
従者 おおせの通りでござります。亡び行く魂を傷む鉦の音が、若様の横死を告げておるのでござります。
女子 えッ、若様の横死! 横死! (と寝台へ仆れる)
使女A 若様の横死!
使女B 死! 死!
従者 お驚き遊ばすは御尤《ごもっとも》でござりますが、唯今は驚いてばかりいる時ではござりませぬ。間もなく涙ぐんだ大勢の騎士、音楽家に送られ小供等の挽歌に傷まれて、若様を入れた白木の柩が、この館へ参らるるでござりましょう。柩が館へ着く前に、音楽堂で起こった一大事をお話し致そうと馳せ参じたのでござります。
女子 早く早く、そんなら、それを早く話しておくれ。ああ私の心はつなみ[#「つなみ」に傍点]のように騒ぎ、黒い怪しい魔のような影が心をまッ黒に曇らせている。……若様はどうしてお死になされたのだえ。あの優しくお情《なさけ》深かった若様が。
従者 はいはい。今朝から音楽堂は……。
女子 (もどかしげに)音楽などはどうでもよい。早く若様の御様子を……。
従者 はいはい、ではござりますが、順を追って申さねば、話はお解りなさりませぬ故、まあまあ、お気を静めて一通りお聞きなさりませ。――今朝から音楽堂の中は、セロやラッパの奏楽で耳もつぶれる程でござりました。諸国よりお集りの音楽家の方々は一つの月桂冠と一人の乙女を得ようため、二十歳の人は二十代までの、八十歳の人は八十代までの、自分の技倆の有らん限りを現わして、弾きつ、歌いつなされますので、音楽の嵐がさしもに堅固の建物を揺するかと思われるほどでござりました。(間)それが夕方になってからは追々に静まって、つい先刻の夜半となった頃は、音楽堂は静まり返り、ただ咽び泣くバイオリンの糸、銀の竪琴のそそるような響きが、聴く人の耳にゆれるばかり。(間)やがてオーケストラが始まり、それが止み、堂内は一層の静かさとなりました。さてこれからが三人残った優勝者の中、最後の優勝者を定めるのでござります。
女子 その三人の中に若様がおいでなされたのではあるまいか。
従者 三人の中でも一番望みを嘱されておられましたのが、若様でござります。(間)若様の歌う歌は、天下に若様のみ唯一人知っておらるる「死に行く人魚」の歌と申すのでござりますそうな。(間)若様が気高い姿を楽堂の中央へ現わして、壇上へお上がりになろうとお進み遊ばした時、集《つど》いあつまった諸国の騎士、音楽家の人々や祝歌《ほぎうた》を歌おうと召し寄せられた小供等の視線は、まじろぎもせずに若様の一身に注がれました。その時の若様のお姿は、窓からの月光も、堂内の燭の光も、若様お一人に集ったかと思われる程、気高く美しく見えました、胸には一輪の深山鈴蘭の花がさされ、手には御秘蔵のバイオリンを持っておられました。この貴橄欖石と紅宝玉とで象眼《ぞうがん》されたバイオリンは亡き母上の御形身であるのでござります。(間)しかし、ああ不幸にも、若様が正面の壇の上へ昇ろうと片足を段へかけられました時、その時、人々は奇異の姿に眼を奪われ、不思議の楽音に心をとられました。――ああ、禍いはそこから来たのでござります。
女子 昨夜の老人が、昨夜の姿のままで銀の竪琴を手に持って、立ち現われたのではないのかえ。
従者 その通りでござります、お嬢様はどうしてそれをご存じでいらっしゃりまする。
女子 呪詛《のろ》われた神経が、私の呪詛われた神経が、そうだと私に告げている。
従者 呪詛われた神経はお嬢様ばかりがお持ちなされていたのではござりませぬ。音楽堂に集っていた数知れずの騎士、音楽家、さては近在の人々や、祝歌を歌う小供まで皆、恐ろしい呪詛にかかっていたのでござります。と申しますのは、その不思議の老人が銀の竪琴をかき鳴らし、しずしずと壇の上へ昇って行くのを誰もひきとめずさえぎらず[#「さえぎらず」に傍点]、あるがままに茫然と見ていたことでよく解りまする、(間)はい、堂内の人々は皆もう茫然《ぼんやり》と見ていたばかりでござります。そして掻き鳴らす銀の竪琴の音に魂までも打ちこんで聞き惚れていたのでござります。(間)ああ、あの悲しげに悩ましげに、震えて鳴った竪琴の弦!
女子 その老人の歌うた歌は? 銀の竪琴の弦に合わせて、その老人の歌うた歌は?
従者 まあお待ち遊ばしませ。……聴衆は、眠り薬と惚れ薬とを一緒に飲ませられた人のように、首を垂れ耳を澄まし、そしてあの恐ろしいことには、丁度昨夜のあの時のように、人々はいずれも片膝をつき、自分の楽器を顎に埋め、感に堪えた時、時々それをかき鳴らし、聞き惚れていたのでござります。
女子 そして、その銀の竪琴の曲は?
従者 それをお話し致す前に、まだまだお話し致すことが沢山にござります。――で、その魔法使いのような老人が壇上に立って、ものの二十分も銀の竪琴を掻き鳴らしました。それを聞いている中に、人々の眼からは悲しみの涙が熱く流れ、あわれの運命を傷む溜息が、唇から漏れ、肩を震わせて歌の心に同情致しました。そして、その曲を聞いてる人々の眼には、紺青の海の上を、赤き帆を上げて行く幻の舟と、それを追って行く人魚の、艶に美しい肩と乳房と、長き黒髪とが見えていました。(間)銀の竪琴の音に連れて、老人はこのように歌うのでござります。
[#ここから2字下げ]
幻の美しければ
海の乙女の
あわれ人魚は
舟を追う。
波を分けて舟を追う。
月は青ざめぬ
屍に似たる水の色。
[#ここで字下げ終わり]
女子 (驚き)ああ
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