に靡《なび》く柳の枝がその実、下の川水に姿をうつしているようなものでござります。私は風の役目と申すもの、川水は誰でござるやら、おうらやましいことでござります。
女子 そういうお言葉を聞く度に、私の心はかき乱されます。どうかもう、おっしゃらずにいて下さりませ。
公子 それは貴女の申すお言葉で、私の申し上げる言葉は別にござります。
女子 そのお言葉を、聞きたいことは山々でござりますが、聞いては却って後の嘆き、悲しい涙となりますれば、おっしゃらずにいて下さいまし。
公子 どうしたわけでござります。聞きたいことは山々なれど、聞いては後の嘆き、悲しい涙になるとは、どうしたわけでござります。(間)いやいや、またさように程の宜いことをおっしゃって、私の言葉をおはずしなさるのでござりましょう、私はよく存じておりまする。
女子 ほんにそうかも知れませぬ。(間)何彼《なにか》と申しましても、私は一つの願いに捉われている身でござりますれば、その願いの届くまでは、何んと申しても貴郎様の御親切にお答え申すことは出来ないのでござります。
公子 一つの願いとはどんな願いでござります。それを私に、お話し下さるわけにはなりますまいか。
女子 一つの願いは、また一つの呪詛《のろい》のように思われてなりませぬ。それをお話し申すは、やすいことでござりますけれど、お話し申しても何んの役にも立たぬことでござりますれば……。
公子 それは、あまり、情無《つれな》いお言葉と申すもの。が、その情無いお言葉は今に始まったことではなく、昔からのことでござりました。あの裏庭の無花果《いちじく》の陰で、さびしい花を毟《むし》っては、泉水へ流しながら、あれほど私が情をこめて、心のたけを申しました時も、甘《うま》くはずして、はっきりとした御返事は下されず。また、海に臨んだ岩陰の、人手と桜貝とで取りまかれた藻の香《か》の強い洞穴で、人魚同志が語るように、睦まじく話し合うた時も、恋の物語になる時は、屹度、いつかどうかおはずしなされます。さりとて情無《すげな》く振り切りもなされずに、恋の僕《しもべ》の狂うのをじらして遊ぶ、悪性《しょうわる》の姫君のように、気をいらだたせるお心が、私には怨めしいよりも、なつかしく、また慕わしいとは、よくよくのことでござりまする。(語る中に、そろそろと女子の傍へ座を占める。女子は困りたる風にて傍による)いつぞや二人して、河添《かわぞ》いの牧場《まきば》を歩いておりました時、乙女等の摘み残した忘れな草[#「忘れな草」に傍点]があったのを、私がそっと摘み取って、貴女《あなた》の髪へさしました所、貴女はいつの間にか取り棄てておしまいなされました。その時私の悲しさはどのようでありましたろう。うるんだ眼から流れ出た二筋の熱い滴が、頬を伝ってその時忘れな草[#「忘れな草」に傍点]に散ったのを見ましても、知れるわけではござりませぬか。
女子 そのように一々おっしゃらずとも、とうから貴郎のお心はよう存じておりまする。……がもうもう、何もおっしゃって下さいますな。おっしゃられれば胸の苦しさが増すばかり、また貴郎に致しましても、そのようにおっしゃって、私の心を苦しめますのは、ほんとに私を愛して下さる、お志にも戻《もと》ると申すものでござります。
公子 云うなとおっしゃれば、もう一言でも云いは致しませぬが、その代り、せめてこの花を、その彫刻のような美しい手で、お受けなされて下さりませ(と深山鈴蘭の花束を出す)。白木《しらき》の戒名よりも淋しい花ではありますが、貴女のお手に取られたら、白い花も紅に見えましょう。
女子 (花をしりぞけ)谷に咲いておってこそ、いとしい花でござります。何んの私が手に取りましょう。
公子 自然は冷酷でござります。人肌はなつかしいものでござります。いつまでこの花を、冷酷の自然にまかせて置けましょう。(と花をさしつけ)さあ早くお取り下さいまし。
女子 (暫時沈黙。やがて、淋しく悲しき嘆息。遂に胸にさしたる紅の薔薇花を取り、公子に示し)噫! 貴郎のように心の清い方は、恋の送り物をなさるにも、深山鈴蘭のような、清く淋しい野生の花を、花束にして送ります。そのお心に対しましても、私は貴郎にお従い申さねばならぬのでござりますが(と薔薇を唇にあて)、これごらん遊ばせ、この紅の薔薇の花が、いつの間にか私の胸に咲いてでござります。白い花と違い紅い花は、色から艶から匂いから一倍勝れて見えまする。私の心は、とうからこの紅い薔薇の花に、ひきつけられているのでござります。(悲しげに)そしてそれが、恐ろしい程、私には強い執着でござります。
公子 (失望して深山鈴蘭を床に投げる)いつも深紅の薔薇の花が、貴女の胸にさしてある故、どうしたわけかと思っておりましたが、もし迂闊《うかつ》に聞いて、口惜《くや》しい他人の名でも語られては、苦しい上の心苦しさと今までは、見て見ぬふりに黙っておりましたが、貴女より今のように打ち明けられては、今までの苦心も空しいものとなりました。(力強く)とてものことにその紅い花の送り主を、私に打ち明けて下さいまし。祝すか呪詛《のろ》うか、それは今から誓うことは出来ぬなれど、貴女の憂いを増させるような、はしたない真似は致しませぬ、これだけは屹度お誓い申します。(と十字を切る)
女子 (感激し)誓うとおっしゃるまでの御志《おこころざし》、私はどうしておろそかに致されましょう。(間)はい、紅い薔薇の送り主を話せとおっしゃるなら、話さぬものでもござりませぬが、あのお話し申したその上句《あげく》、あさはか[#「あさはか」に傍点]な迷信だとお笑いなさりょうかと思いまして……。
公子 何んで迷信だなどと申しましょう。貴女のその美しいお姿には、迷信などのとり入る隙がござりませぬ。よしまた、それが世に云う迷信であった所で、美しい貴女が、迷信でないと堅くお思い遊ばすなら、やがてそれが迷信でないように、総ての世間が思いこむでござりましょう。勢力は権力でござります、勢力の源は個人の力でござります。その個人の力は美より外にはござりませぬ。貴女はその美の権化でござりますもの、権力の源とも申されましょう。
女子 そのように私をお信じ下され、褒め讃えて下さる方は他に一人もござりませぬ。その唯一人きりの若様へあの不思議の物語、アラビヤあたりの童話にでもありそうな、幻《まぼろし》じみたお話を致すのは心苦しいことでござりますが、(間)思い切ってお話し致しましょう。けれど、今私がお話し致します夢よりはかない物語をお聞きなされたその後で、貴下が私を思い切り遊ばすのは、お心まかせでござりますが(間)、それと一緒に、たよりない私を、おさげすみ遊ばすようになることかと思えば、悲しい淋しい思いが致してなりませぬ。
公子 (女子の手を取り)それは全く貴女のおめがね違いと申すもの、私は決してそのような軽薄な心のものではござりませぬ。たとえその物語が祭の夜、裸体の男を見そめたと申すようなお話でも、また、猛獣の狂う砂漠の中で、メッカあたりへ渡って行く、カラバンの一人を、おしたいなされたと云うのでも、私は決して貴女をおさげすみ申すようなことは致しませぬ。(間)恋には天津乙女も土龍の穴まで下り、女王が蛇の窟へ忍んで行ったではござりませぬか。――そのような取り越し苦労をなされずと、さあ早く紅い花の送り主を、語って聞せて下さいまし。
女子 (頭を傾けて肩に垂れ、過去を追想する如き風をなす)北の海辺の小さい領主の一人娘が、夏の終りの夕暮に浜に彳《たたず》んでいたと覚しめせ。
公子 その娘が貴女だと申しましても宜《よろ》しいのでござりますか。
女子 はい、そのおつもりでお聞き下さいまし。
公子 つづまやかな美しさが、その一人娘の彳んだ姿を装飾《かざ》っていたでござりましょう。
女子 その一人娘の着ていた衣《きぬ》は上衣は桃色で下は純白でござりました。(と自分の着ている衣を見る)その娘は小さい時からこのような色が大好きでござりました。
公子 私もそのような色彩が大好きでござります。
女子 娘の髪の毛は透明に見ゆる程光り輝く黄金色でござりました。(と自分の髪の毛にさわる)その髪の毛を暮れ行く薔薇色の夕日に映しておりました。そこは荒れ果てた浜で、髑髏《しゃれこうべ》のような石ばかりが其処《そこ》にも此処《ここ》にもころがっておりました。破船の板や丸太や縄切れや、ブリキが岩の間に落ち散り、磯巾着《いそぎんちゃく》が取りついているのでござります。そして餌をあさりかねた海鳥が、十羽も二十羽も、群れ飛んでいるのでござります。長い翼は日に映り、飛び巡るたびに木をこするような音で鳴き合いました。浜には一人の人もいず、背後の丘を越して風ばかりが吹いておりました。丘には花も咲かず実も熟《う》まず、ただ一面に赤茶けて骨のような石ころが土[#「石ころが土」に傍点]の裂け目に見えているのでござります。夕暮のことでありますから、沖の波は荒れて大きなうねりが磯に寄せて参ります。磯に寄せた大波はそこで砕け、白い泡沫が雹のように飛び散るのでござります。娘はその浜の水辺《みずぎわ》に立って、自分の影を見詰めておりましたが、影は長く砂に落ちているのでござります。(間)娘は老いた領主の一人子でありましたから、不足なく育てあげられておりました。(間)その時の娘の心は全くの虚心平気と云うわけではござりませぬ。何んと名づけてよいか名づけようのない心持ちが娘の心を領しておりました。もっと完備した生活を送りたいと願う心でもなく、自由に世の中へ出たいと思う心でもござりません、両親の愛を不足に思うでも兄弟の無いのをつまらなく思うのでもなく、もっと高い感情でござりました。まあ云って見ますれば、形のない憧憬とでも申しましょうか、ただ心が或る美しい幻影を描き出し、その幻影を捉えようとあせるのでござります。
公子 (熱心に)その幻影と申すのは恋のことではござりませぬか。
女子 さようかも知れませぬ。(間)あの時の感情は、今思うたとて、とても思い出せるものではござりませぬ。(間)娘はただ恍惚として自分の影を見詰めておりました。(やや長き沈黙)そうすると、自分の影と並んで一人の男の影が砂の上へ映りました。娘は驚いて振り返りますと、若い騎士姿の音楽家が娘の直ぐ傍に立っているではござりませんか。(間)娘は一眼その姿を見て、心の中で「待っていた人影」ではないかと思いました。
公子 (忙はしく)その騎士姿の音楽家が、紅い薔薇の花を娘に送ったのではござりませぬか、その音楽家が。
女子 (頷き)紅い薔薇の花をくれる前に、その人は銀の竪琴で長い曲を弾きました。それは短嬰ヘ調で始まる「暗と血薔薇」の曲でござります。(公子思いあたると云う風をなす)それを聞いている中に、娘の心は夢よりも幽になり、意志も情も消えてなくなり、ただ一つ所をじっと見詰めていたのでござります。
公子 何を見詰めていたのでござります。
女子 見詰めていたのではなく、引きつけられていたのでござります。その証拠には、その一つ所から視線を外《はず》そう外そうとあせっていたことを娘は今でもはっきり[#「はっきり」に傍点]と覚えているのでも解ります。
公子 何に引きつけられていたのでござります。
女子 恐ろしい魔法の光り物……。
公子 それは何でござります。
女子 恐ろしいものでござりまする。
公子 ただ恐ろしいものだけでは私には解りかねまする。
女子 その騎士姿の音楽家の恐ろしい眼でござります。(間)その恐ろしい魔法の光り物がその人の眼だと気付いた時は、娘の体は音楽家の両手の中にありました。
公子 (せわしく)両手の中に。
女子 (公子を止めて)音楽家の両手の中にありました。けれども体が両手の中に在ったと申しますのは、決して体をまかせたと申すのではござりませぬ。
公子 そんならその娘は、今でもなお清い体でござりますな。
女子 はい、その娘の体は、今もなお鈴蘭のように清い体でござります。(悲しげに、また恋しげに)、けれども遂にはその音楽家の両手に抱
前へ 次へ
全16ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング