て)お姉様よう! 一度っきり、一度っきり(とすすり上げ)、そんならお姉様! いま一度っきり此処へ帰って下さいよう。(沈黙! ヨハナーン失望して声を忍んで泣く。場内静。再びヨハナーン気を取り直し)お姉様一度っきり帰って下さいよう! お姉様は私と一緒に此処にいつまでもいると云ったじゃないの! え、お姉様! それは嘘なの嘘を云ったの? 嘘じゃない嘘じゃ無い! お姉様は嘘なんか云いはせぬ。……それだのにお姉様は私を棄てて塔の中へ行ってしまうなんて! ……塔の中に何があるの? お姉様の好きのものがおありなさるの? え、好きのものがあるの? 嘘々《うそうそ》! 何もありゃしない! あんな黒い恐い塔の中にそんなものはありゃしない。塔の中は暗くて淋しくて冷たいばっかりよ。……何故姉様は黙ってるの、今までヨハナーンと私を呼んでいたじゃないの! ヨハナーンと呼んで下さいよう。何故黙っているの、何故、何故、何故! ……私が憎いから黙っているの! 私が、あんなお歌を歌ったから怒っていらっしゃるの? そんならもう、あんなお歌は歌いませんから、一度っきり帰って下さいよう。……まだ黙っている。……ええ、ええ、私の声が聞こえないの? そこまで届かないの? え、お姉様! 私はこんなに大きい声をして――ああ喉から赤い血が流れそうだ――こんなに大きい声をしているのに何故お返事をしてくれないの? (耳を澄ます、沈黙《サイレンス》!)ええ、ええ、私はこんなにお姉様を恋しがって呼んでいるのに、いつまでもお姉様は黙っている。……(塔を吹く風の音)風が吹いておりますよお姉様! そして大変淋しいの。……お姉様がいない故このお室《へや》はお墓の道のように淋しいのよ。いやいやいや、こんな淋しいお室に一人でいるのはどうしたって厭……お姉様、屹度《きっと》屹度私は、お姉様のおっしゃる通りにおとなしくしておりますから。歌を歌えとなら歌いますし、黙っていろとなら一日でも一年でも屹度口をききません! お姉様のおっしゃる通り、おとなしい子になりますから、いま一度っきり此処へ帰って来て下さいよう。……これ私はこんなに頭を下げて頼んでおりますよ。これがお姉様には見えないの、聞こえないの? 私はこんなに……泣きながらこれこんなに(と手を合わせ、頭を下げる)お願い申しておるのですよ! ……ほんとに、ほんとに……私は、お姉様の弟ですのに。……(泣きながら)ええ、ええ、情けないお姉様だこと! 私がこんなに頼んでいるのに、いつまでも黙っている。……それともお姉様、水門から出て来られないの? そんなことはないでしょう。そんなことはない、そんなことはない! 力まかせに押し破って、お姉様は大人だもの、力まかせに押し破って……そしたら出て来られますよ。早く出て来て下さいよう。……そして私を昔のように抱いて接吻して下さいよう。え、え、お姉様!(耳を澄ます、沈黙《サイレンス》)ええ、ええ、何んてお姉様は!
あれあれどうしたんでしょう私の体がだんだん冷たくなって来ます。お室の冷たいのが身にしみて参ります。……いま少し此処に一人でいれば、このお室の底へ引きこまれるように思われます……お室の冷たい風や青い光に。……ほんに私はもうこのお室で……お姉様ってばよう。
ええ、ええ、私も一層のことお姉様と一緒に、その塔へ行ってしまいたい! 塔へ塔へ! (と格子を破り出でんとあせれど格子は破れず)ええ、ええ、この格子が! ああ私は塔へも行けないの、お姉様よう。……(と格子より手を離せばヨハナーンの小さき体は床上に落つ。すき通るが如き声にて烈しく泣く、その声次第次第に細り行き、遂に断ち切りしが如くに止む。――屍の如き体を天井の青き光と窓外の月とほのかに照らす。――冷酷なる沈黙!)



底本:「伝奇ノ匣1 国枝史郎ベスト・セレクション」学研M文庫、学習研究社
   2001(平成13)年11月16日初版発行
初出:「レモンの花の咲く丘へ」東京堂書店
   1910(明治43)年10月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年11月30日作成
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