はおやめ! ……そして話のつづきを話しておくれ。(独言の如く)ああ、このような昔のことを、二人で話すのもほんの僅かだ。……塔の中、塔の人!
少年 (恐る恐る)それからねお姉様!……お姉様がお歌をお歌いなされた後で、私に二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]を下されたでしょう。二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]を。――お姉様、それを覚えていて。
女子 いいえ、(頷き)ああ、そうそう。二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]をお前さんにやったっけねぇ。……そしてお前さんはそれでどうしたの。
少年 一つを眼にあて、一つを耳にあてるんだって、お姉様はおっしゃったでしょう。
女子 (無音)
少年 私はその通りにしたの。……大きい方を耳にあて、小さい方を眼にあてたのよ。……するとお姉様はこう云ったでしょう。「耳の貝で海を聞き、眼の貝で海を見ろ!」って……。
女子 (無音)
少年 私は一生懸命に耳の貝で海を聞き、眼の貝で海を見ていたのよ。……するとお姉様がまた「ヨハナーンや、どんな音が聞こえます」って聞くの。「何も聞こえませんよ」って私は答えたわ。ほんとに何も聞こえませんもの。するとお姉様は「その筈です」と云ったわね。お姉様!
女子 (無音)
少年 するとまたお姉様は「ヨハナーンや、海の上に何が見えて」って聞くんです。何も見えないんでしょう、だから私「お姉様、お姉様、何も海には見えません。ただ暗いばっかりよ」って答えたの。「その筈です」ってお姉様は、淋しいお声で云いました。――そして少し経《た》ってから、またお姉様は、「ヨハナーンや、お前さんは沈黙と暗黒とを見ているね、暗黒と沈黙とを聞いているね」っておっしゃるの、そして直《す》ぐにまた「ヨハナーンや、姉様はその沈黙と暗黒のおそばへ行くんですよ、――さようなら、……あれもう灰色のお舟が迎えに来てよ」っておっしゃるの。私は吃驚《びっくり》して耳の貝と眼の貝とを一緒に取ってお姉様の方を振り返ったのよ。
女子 ヨハナーンや、姉様はもうその時、岩の上にはいなかったんでしょうね。
少年 ええ、ええ、いなかったのよ。今までお姉様のいらっしゃった岩の上には、お姉様がしじゅう弾いていらっしゃった七弦琴が置いてあったばかり。……ね、この七弦琴が。(と自分の持ちたる七弦琴を差し出す)そこで私は、岩の上に立ち上がって海の方を眺めたのよ。すると海の遠くの遠くの方に、灰色の帆舟が一艘|辷《すべ》って行くのよ。……空と海とが一重に見える遠くの方へ。……私は心の中で、あのお舟の中にお姉様はいる。……あのお舟でお姉様は私の知らぬお国へ行くんだと思ったの。……そしてもう為方《しかた》がないのよッて思ったの。それでもお姉様、私は三度ほどお姉様を呼んだのですよ。……白い鴎が飛び返って来るばかりで、お姉様のお声は返って来ないのよ。(姉を熟視し)お姉様! あのお舟でお姉様は此処へ来たの。
女子 (厳粛に頷き)ヨハナーンや、それからお前さんは今日までどうして日をくらしていたのです。え。
少年 一人でくらしていたのよ。お姉様の弾いていらっしゃった七弦琴を弾いてね。
女子 どんなお歌を弾いていたの?
少年 私のような年格好の小供の、知っているようなお歌よ。
女子 どんなお歌? ……それを私に弾いて聞かせておくれ。
少年 ええ、ええ。(と躊躇せずに弾き且《か》つ歌う)
[#ここから2字下げ]
南の国の王様が
レモンの花の夕暮に
銀のお笛を吹いている。
銀のお笛は山越えて
湖《みずうみ》こえて鳴ったれば
レモン林の姫様が
明日《あす》は行きます
待ってやと
玉の琴音をかき鳴す。
[#ここで字下げ終わり]
女子 まあまあ、そんな可愛いお歌を歌っていたのかぇ。
少年 このお歌を歌ったり弾いたりしていたのよ。……けれどもね、その中に私はこのお歌が嫌になったのよ。
女子 何故でしょうねぇ。そんなに可愛いお歌を。
少年 可愛いお歌! そうですわ。このお歌はほんとに可愛いお歌ですわね。けれど私、もうこんな可愛いお歌は厭になったんですの。……もっと、もっと、悲しいような、身にしみるお歌が弾きたくなったのよ。……それでね、お姉様!
女子 それで別のお歌を弾いたのかい。
少年 ええ、ええ、別のお歌を弾いたのよ。……あのお歌を弾いたのよ。「その日のために」って云うお歌を。
女子 まあ。
少年 けれども私、今も云った通り、あのお歌は節《ふし》だけは知っているけれども、文句は知らないんでしょう。だから私、ただ七弦琴に合わせて、節だけ鳴らしていたんですの。……歌は歌わないでね。……けれども私、その中に節だけでは物足らなくなって来たの、どうしてもお歌の文句を知りたくなったのよ。……そして、お姉様! そしてお姉様が恋しくなったのよ。……お姉様に逢いたくなったのよ。……毎日毎日私はお姉様のことばかりを思っていたのよ。
女子 それで姉様を此処まで尋ねて来たの?
少年 ええ、ええ、そして、とうとうお姉様と逢われたわ。
女子 (不思議そうに)けれどねぇ、ヨハナーンや、どうしてお前さんはお姉様が此処に居ることを知ったんです。……そしてどうして一人で此処まで来られたの。
少年 (首を振り)いいえ、お姉様、私は一人で来たんじゃないのよ。
女子 (驚き)一人でない?
少年 大きい人と一緒に!
女子 大きい人?
少年 大きい恐い人。
女子 (無音。――やや思いあたれるが如き様子)ああ。
少年 大きい恐い、そして影のような人と一緒に来たのよ。お姉様。
女子 ヨハナーンや。……そしてその人は。……あのお前さんを……。
少年 ええ、ええ、私を引っぱったり押したりして、此処までつれて来たんですわ。前に立ったり背後《うしろ》に立ったりしてね。……私はその人の歩いて行く方へ歩いて行ったの。……押されるまんまに押されて来たのよ。……私はね、心の中で思ったの。……この人が私をお姉様の所へ連れて行くんだとね。ええ、ええ、その人は唯フッと現われたのよ。フッと現われた人だけれど、なんだか大変偉いようなお人だわ。そして恐いお人よ。……その人はね、いつも私に囁いているの。「行け行け! ただ行け、行け! お前はどうしても行かねばならぬ!」こう私に囁いているのよ。
女子 (凝然たる瞳を以て黒幕をすかして塔を眺む。――失望の色は顔を鉛色に染む)ただ行け行け! お前は行かねばならぬ! その影のような人がそう云ったんだね。
少年 ええ、ええ。
女子 塔の人。塔の人。
少年 お姉様! (と姉を恐ろしげに眺め)そのお人は悪い人ですか……。
女子 いいえ、(間)いいえ、(間)いいえ。(間)
少年 恐い人ですか?
女子 いいえ、(間)いいえ。……その人はね、塔の人ですよ。塔の人……。
少年 お姉様! 私には……わからない……強い人なの?
女子 もうもう、何もお聞きでない。お前さんは、その人に連れられて来たんですもの。……恰度《ちょうど》私が灰色の帆舟で連れられて来たように。……ヨハナーンや! ……その人と一緒に三つの門を越して来られたんでしょうねぇ。
少年 (深く頷き)ええ、ええ、三つの門を越して来たのよ。
女子 やすやすと越せたかぇ。
少年 ええ、ええ、安々《やすやす》と越せたのよ。私を連れて来たその人がね。私の手を引いて門の前まで来ると、門が自然と両方に開《あ》いて、二人が這入《はい》るとまたしまったのよ。開いた時と閉じた時、重い陰気な音がしてよ。その音を聞いた時、私は心の中で、ああもう二度と私はこの門を出ることが出来ないのだと思ったの。……お姉様あの門は何の門? 両方に刃《は》のついてる長い剣が門をしっかりと守っていてよ。お姉様!
女子 お前さんを連れて来た影の人が、何んとかお前さんに云わなくって。
少年 ええ、ええ、むずかしいことを云ったのよ。……肉体を守る剣の門だって。
女子 肉体を守る剣の門! その人の云う通りですよ。……第二の門もらくに越せたの?
少年 泉の水で守られた第二の門も、第一の門と同じように、影のような人に手を引かれて、らくらくと越したのよ。お姉様あの門は?
女子 あの門はね。情の泉で守られた門。
少年 影のような人もそう云ったのよ。
女子 ヨハナーンや! 第三の門は火の門でしょうね。
少年 赤い火の門よ……。
女子 そして熱い!
少年 ええ、ええ、熱い火の門よ!
女子 それもらくに越したのかい。
少年 自然《ひとりで》に門が開《あ》いて、二人はらくらくとこせたのよ。お姉様あの門は?
女子 影の人は何んと云うたの。
少年 熱い魂の門ですって。
女子 その三つの門を越して、この青白いお室《へや》へ来たんですね。……可愛そうなヨハナーンや! ……何も知らぬヨハナーンや! (間――涙と共に)ああ、ああ、可愛そうなヨハナーンや!
(二人無音。――墓の如き静寂。時々塔を吹く風の音と、水門に流れ入る水の音。……ヨハナーン、また痙攣的に泣き出す)
少年 (泣きながら)お姉様! 此処《ここ》が躍ってよ、大変躍ってよ、お母様やお姉様とお別れした日のように躍ってよ。……お姉様、お姉様! 大変躍ってよ。(胸を抑えて姉を凝視す。泣く)
女子 (最早詮方なきを知りしものの如く)ヨハナーン! (沈痛に)ヨハナーン!
少年 お姉様! 私は、(と四方を見て)私は。……(四方を見ておびえる。――姉も四方を見る。――青白き光線室内に充《み》つ)
少年 お姉様、青い光がだんだん濃くなって来てよ。……私の体がだんだん弱くなって来てよ。(塔を吹く風の音)お姉様! あの音?
女子 風の音です、何んでもない風の音です。……ヨハナーンや! さあ姉様の所へおいで、さあ昔のように緊《しっ》かりと抱っこしてあげましょう。……さあおいで。
少年 (後退《あとずさ》りして)いいえ、いいえ。
女子 恐いことはありませんよ、……さあ。(と手を差し出す)
少年 (それをくぐり)お姉様!
女子 ヨハナーンよ! 姉様を恋しがって来たのじゃありませんか、……さあ、その恋しい姉様が昔のように可愛がって抱いてやるんですよ。さあおいで、……お前さんをよく眠らせた子守歌を歌ってあげましょうね。
少年 (姉の傍へそっと行き、その手に抱かるる)お姉様! (と接吻す)お姉様!
女子 (ヨハナーンを数々《しばしば》接吻し)昔のように、さあしっかりと抱《だか》っておいで、もっと緊《しっ》かりと緊かりと。(ヨハナーンの顔を熟視し)姉様をようくようくごらんなさいよ。忘れぬように、忘れぬように。……ね、いつまでも忘れぬように。
少年 (姉の顔を見上げ)青い!
女子 ええ!
少年 青い!
女子 何が?
少年 青いの、お姉様のお顔が……そして冷たい! そして大変悲しそうなお眼だこと。お姉様! ……そしてね、お姉様のお手は骨のように堅い。骨のように。
女子 いいえ、いいえ、ヨハナーンや! 私は昔のようにやさしく抱いているんですよ。……ね、やさしく。……ほら。
少年 いいえ、骨のように堅いのよ。……そして私の、私の、(と胸を抑え)また私の胸が大変躍ってよ。……あの日のように。――お姉様! ほら、ほら、ね、こんなに。
女子 (ヨハナーンの胸を抑え)まあー。
少年 お姉様! お姉様! お姉様! (と痙攣的に泣く)
女子 ええ、ええ、もう。(と塔をすかし見て、絶望的に嘆息す)
(ヨハナーンの泣き声のみ悲哀をこめて場内に響く。――その声、次第次第に細り行く、笛の音の切れんとするが如し。……やや長き沈黙)
女子 (卒然として立ち上がり、上手の扉に向かい耳を澄ます)足音! 足音!(とヨハナーンを床の上に立たす。ヨハナーンはにわかに泣き止め、恐怖に襲われしが如く身をふるわす。大人の如く真面目なる表情)
女子 ヨハナーンや! あの音が聞こえますか。あの音が? おお おお!
少年 いいえ、何も、お姉様何も聞こえは致しませぬ。……ああ、いいえ! お姉様! どんな音? 風の音?
女子 (凝然と扉を見つめ)いいえ、足音! 大勢の足音!
少年 いいえ、いいえ。お姉様!
女子 そうだ。たしかに。(と
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