と、総てのものを支配する大きい大きい暗黒ばかり、その沈黙と暗黒とへ、私はこの身を何んで投げよう。私はいつまでも此処にこうして機を織っていよう。(と機を織りつつ歌う)
[#ここから2字下げ]
若き世の恋の色彩《いろあや》、
日の如き赤き喜《よろこび》、
ああそれもまたたく消えて、
墓を巡る夕月の色、
悲しみの青き綾糸、
人生《ひとのよ》の縦《たて》となりけり。
[#ここで字下げ終わり]
(塔を眺め)そろそろ日が暮れると見えて、塔の上の湿った影が、だんだん下へ下《お》りて来る。あの影の下りきらぬ中に、私は機を織らねばならぬ。(無音にて機を織る。――杳《はるか》の屋外にて、堅き城門の開く音す。女子は機の手を止《と》めて耳を澄ます。その音尚かすかに響き来る)
女子 剣でかこまれた第一の城門が、たやすく開《ひら》く筈はないが、(と考え)今の音はどうやらその城門が開いた音のように思われる。(音なお残りて聞こゆ)あれあれまだ鳴っている。鋼鉄の琴のゆれびきのように、あれあれまだ鳴っている。(音次第に幽《かすか》になりて遂に止《や》む)止んだ! (と淋しく笑い)私の耳の空聞《あだきき》だろう、剱で守られたあの城門が、何んで容易《たやす》く開くものぞ、あの音は空の真ん中で鳴りはためく、雷の音であったのだろう。(やや長き沈黙。音の有無を聞き澄ます。――塔を吹く風の音)塔を吹く風の音が、挽歌のように鳴っている。(水門へ流れ入る水の音)そして水門へ流れ入る水の音が、屍をのせた柩の舟を運び行くように聞こえている……。ただそれだけだ。……何も聞こえない。……城門が開《あ》いたと思うたのは、ほんの私の空耳だろう。(間)空耳で幸いな。あれが空耳でなかったら……。ほんに城門が開いたのなら、(恐ろしげに)私の運命が……運命の糸が切れるだろう。それが私の身にふりかかっている、命の預言! この世の運命《さだめ》……そんなことがあるものか、私は長く長く此処に居て、五色の糸を織る身じゃもの。今の音は、雲の間で空しく鳴る、意味のない雷の音よ! (されど不安そうに耳を澄ます。静。女子淋しく笑いて機に手をかけ、五色の糸を見て驚く)――糸が切れた! (青と赤との糸切れてあり)青と赤との糸が切れた! (と機より立ち上がらんとして再び座し、手にて顔を蔽《おお》う。忍び泣き。三分間。やがて女子顔を上げて、残りの三色の糸を見る)ああ、私は何も云うまい。まだ三色の糸が残っている。私は三色の糸で機を織ろう。この三色の糸の切れぬ中は、私は此処に居られる身じゃ……。私は何も云わぬことにしよう。(女子再び機を織る。以前よりは悲しき声にて歌う)
[#ここから2字下げ]
白糸の清ければ
乙女心よ、
やがて染む緋や紫や
あるは又罪の恐れの
暗《やみ》に似てか黒き[#「か黒き」に傍点]色の
罪の黒糸
罪の黒糸。
さまざまの色ある糸の
綾を織る人の世の象《さま》
ああ斯《か》くて日を織り月を
年を織り命を織りて、
人生《ひとのよ》を織りて行く梭か。
(その日のために)
[#ここで字下げ終わり]
(歌声やむ時、第二の城門の開く音す。女子耳を澄ます)
女子 第二の城門は瀧のように落ち下る、泉の水で守られている。(やや間近に聞こゆる余韻を追い)その城門も開いたのか? 私の身の上にふりかかっている命の預言が近づいた。(塔をすかし)ああ塔の上の人影は今は水門の上へ下りている。やがてこの室へ忍び入るのだろう。そして私を、あの塔の中へ導いて行くのだろう。(耳を澄まし戸外の音を聞く)誰やらが歩いて来る。足音は小供の足音のように軽く小さく聞えて来る。私の身代りにこの室へ来たのかも知れぬ。物凄い城門の音に送られて、此処へ来る不幸の人は、女ならば機を織り男ならば琴を弾《ひ》き、一生を此処で暮らさにゃならぬ。(機糸を眺め)ああまた白い糸が切れたそうな。後に残ったは黒と黄との二色ばかり、私はこの糸の切れるまで、此処で機を織らねばならぬ。そして二色の糸の切れた時、私は静かにこの室を出て、あの塔の影となる。それが私の命の預言。(と機に手をかけ、織りながら歌う)
[#ここから2字下げ]
人生を織り行く梭の
絶ゆる日に琴の音鳴らん、
七筋の調べの弦《いと》に
黄なる糸|運命《さだめ》の糸を
ひきかけて
鳴らさんものか。
(その日のために)
[#ここで字下げ終わり]
(第三の城門の開く音間近く聞こゆ。女子織る手をとめる)
女子 黒い糸もまた切れた! (と決心せる如く機《はた》より立ち離れ、場の中央に立ちて下手の口の堅き鉄の扉を見詰む。――扉の外にて軽き足音聞こゆ)
女子 軽い足音がする。このもの寂しい室へ来るには、あまりあどけない[#「あどけない」に傍点]足音だ、小供の足音だ。
(足音近づくと共に、七弦琴の音聞こゆ)
女子 (耳を澄まし)七弦琴の音がする。私の幼《ちいさ》い頃、この室へ来ぬ前に、弟と一緒に弾いた七弦琴の音がする。(一層《ひときわ》高く七弦琴鳴る。その音絶えると同時に、堅き鉄の扉は自《おのず》と開けて一人の愛らしき少年現われる。手に七弦琴を持つ)
少年 (女子を眺め)お姉様!
女子 (驚き)誰なの?
少年 (無邪気に、さも悦《うれ》しげに)お姉様、お姉様、私はお姉様を尋ねて来たのよ。
女子 お前さんは誰なの?
少年 ヨハナーンよ!
女子 ヨハナーン?
少年 お姉様の弟の。
女子 弟?
少年 お姉様! お姉様は私を見忘れたの! 私はお姉様の弟のヨハナンよ!
女子 (少年を凝視し、にわかに馳せ寄る)ヨハナーン! ヨハナーン! ほんとにお前は私の可愛いヨハナーン!
少年 (姉にすがり)お姉様! (となつかしげに顔を見る)
女子 (少年を抱き幾度も接吻し)ヨハナーンや、私の大事の大事のヨハナーンや! どうしてこんな[#「こんな」に傍点]所へ来たの? え、どうして此様所《こんなところ》へ来たのです。
少年 (なつかしげに。姉に接吻し)お姉様に逢いに来たのよ。……そしてあのお歌を聞きに!
女子 あのお歌?
少年 ええ、ええ、お姉様のお歌を聞きに来たのよ。
女子 お歌を? まあ!
少年 ええ、ええ、お姉様のお歌を。
女子 まあ……。
少年 ね、お姉様、あのお歌を教えて下さいな、お姉様が一度っきり私に教えたあのお歌を!
女子 一度っきり教えた。
少年 お姉様が、私を棄てて遠い所へ行《いら》っしゃる日に、一度っきり私に教えたあのお歌よ!
女子 どんなお歌だったかねぇ。
少年 「その日のために」って云うあのお歌よ!
女子 (驚き)「その日のために」?
少年 大変悲しい節《ふし》のあのお歌を、いま一度お姉様のお口から聞きたいの。
女子 それでお前さんは此処へ来たのかい。
少年 あのお歌を聞きたいばっかりに、私はお姉様をさがしたの。……そして、とうとう私はお姉様を見つけ[#「見つけ」に傍点]たのよ。ね、お姉様。お姉様は其処にいらっしゃるでしょう。――ああ私はほんとに安心した。(となつかしげに見る)
女子 (ヨハナーンを引き寄せ、そのままそろそろと機の所まで行き、腰を踏台の所へ下ろし、ヨハナーンを膝にすがらす)ええ、ええ、姉様は此処に居りますよ、お前さんがそのように、なつかしがる姉様は此処に居りますよ。(悲しげに)間もなく別れねばならぬ身なれど……。(ヨハナーンを凝視し)ヨハナーンや、お前さんはそんなにこの姉さまが恋しいのかぇ。
少年 お姉様のことばかりを私はしじゅう思っていたの。……そしてお姉様の歌ったあのお歌を!
女子 「その日のために」と云う歌をかぇ。
少年 お姉様、あのお歌をいま一度歌って下さいな。私はあのお歌を、お姉様のお口から唯一度聞いたばかり故、まだあのお歌の文句をよっく知らないのよ。
女子 ほんに唯一度きり、それもお前さんと別れる日に、唯一度っきり教えた歌だったねぇ。
少年 だから私は、あのお歌の文句を未だ知らないのよ。……けれどもね、節《ふし》だけは知っているのよ。節だけはね。
女子 まあ、節だけは知っているの?
少年 節だけはね。私この七弦琴に合わせて弾《ひ》くことが出来るのよ。けれども文句を知らないから口で歌うことは出来ないのよ。
女子 (考える。――やや長き間)ああ、それも悲しい一つの預言じゃあるまいか。
少年 (心配そうに)お姉様、お姉様、節だけ知っていて文句を知らぬのは大変悪いことですか。ええ何故そんなに心配そうなお顔をするの、お姉様がそんなに心配そうなお顔をすれば、私はほんとに悲しくって。
女子 (心を取り直し)いいえ、何も姉様は心配してはおりませんよ。……だがね、お前さんが、節だけ知っていて、文句を知らぬと云ったから……。
少年 ほんとですもの、私ほんとに節だけは知っているけれど……。
女子 ええ、ええ、そうでしょう。それはいいけれど。(と考え)恰度《ちょうど》、思うことは出来るけれど、知ることが出来ぬと同じようだ。朧《おぼ》ろ気《げ》に感ずることは出来るけれど、ほんとに見ることが出来ぬと同じようだ……。
少年 お姉様は何を云っているの。私には解らないのよ。
女子 いいんですよ。……ああ、けれどもね。
少年 ええ、ええ、お姉様!
女子 お前さんが、その歌の文句を知ることが出来る時は。……お前さんは自分の運命を知る時ですよ。
少年 ……私の運命。……それは何?
女子 此処へ来た運命をね。
少年 (笑い)お姉様、お姉様。私は此処へ何故来たか知っていてよ。ええ、ええ、よーっく知っていてよ。
女子 (驚き)まあ(とヨハナーンの顔を熟視し)知っているの?
少年 そんなこと何んでもないわ! 私はね、此処へ大事の大事のお姉様を尋ねて来たんですもの……。
女子 (少年に頬ずりをし)そうかぇ、そうかぇ、ああ、ほんとにお前さんは無邪気だねぇ。(窓ごしに塔をすかし見て)けれども、あの塔の影を見る時には、もうその無邪気はなくなるだろう……。(少年を抱きしめ)ヨハナーンや!
少年 (何んとなく悲しげに)お姉様!
(両人無音にて顔を見合わせ、かたく抱き合う)
少年 (四方を見廻し)お姉様、このお室《へや》は淋しいね。
女子 (四方を見)そうお思いかぇ、ヨハナーンや!
少年 (恐ろしそうに)お姉様、このお室には何故|燈火《ともし》がついて[#「ついて」に傍点]いないの? ただ高い高い天井から、青い光が落ちて来るばかり。……お姉様! あの青い光は何処《どこ》から来るの?
女子 恐ろしい所から来るのじゃありませんよ。ただ天井から。
少年 (天井を見上げ)天井の高いこと、どこが限りだか解らない。――お姉様、どこが限りなの?
女子 ……姉様も知りません。
少年 お姉様も知らぬ遠い所から、青い光は来るんだね。……お姉様! 何故此処には寝台が無いの?
女子 このお室に居る人は、夜も昼もしじゅう機を織らねばならぬ故。
少年 (不思議そうに姉を眺め)夜も昼も?
女子 ええ、ええ、夜も昼も五色の糸の綾を織るの。(と機を指さす)
少年 (機を眺め)あの機で織るの?
女子 (頷く)あの機で!
(少年機の傍に行き、触り見る。)
少年 冷たい機!
(再び姉の傍に来て顔を見上ぐ。水の音聞こゆ)
少年 お姉様、外には何があるの。恐ろしい水音が聞こえてよ。
女子 あれはね、暗い水門へ流れ入る水の音です……その水門へ流れ込む水は、二度と再び明るい世界へ出られないんですよ。
少年 その水門はどこにあるの?
女子 このお室の外。
(塔を吹く風の音聞こゆ)
少年 (耳を澄まし)お姉様、風が吹いているね。
女子 塔を風が吹いています。
少年 塔?
女子 水門の上にはね、高い塔があるんですよ。その塔の中にはね……いやいや……何も教えまい。(と急に思い返して黙す)
少年 (姉の顔を熱心に視て)お姉様!
女子 (無音にてヨハナーンを見る)
少年 (熱心に)塔?
女子 いいえ、何もありません。
少年 お姉様! 塔?
女子 いいえ、あの音は水門を吹く風の音です。
少年 その水門の上の塔?
(女子立ち上がり、窓より塔をすかし見る、塔に月光さす)
女子 夜になった、青ざめた光
前へ
次へ
全16ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング