て常時《しじゅう》疑っている。(窓を離れる。――と従者と顔を見合わせる)まだいたのか。
従者 はい、お殿様のお心を伺わぬうちは参りませぬ。
領主 (不審そうに)俺の心の何を伺うと云うのか。
従者 お隠し遊ばしても、チャンと存じておりまする。ハイ、チャンと存じておりまする。あなた様がこれんばかりの時から今日が日まで、一日も離れずお付き申し上げた私でござりますもの、お殿様のお心の中は、私自身の心の中よりも、ずんと詳しく存じぬいておりまする。ハイ。
領主 それがどうしたと云うのか。
従者 お隠し遊ばしても駄目でござります。
領主 (いらいらとして)くどい奴だな、俺は何も隠してはいないじゃないか。それともお前には隠しているように見えると云うのか。
従者 ハイ、その通りでござります。お殿様は一から十まで近頃はお隠しなされておりまする。
領主 何も別に隠している覚えはないが、それでも、かくしているように見えると云うなら為方《しかた》がない。そう見られるばかりだ。(と復《ま》た窓の方へ向かんとするを引き止め)
従者 (眤《じ》っと主人の顔を眺め)お顔もおやつれ遊ばしました。頬も額も青玉のように青褪めておりまする。
領主 俺は元から、あまり肥えてはいなかった、そして色も青かった。(やや悲しげに)それに近頃は…………。
従者 (遮《さえぎ》り)あの女子《おなご》がこの館へ参られてからは、一層お痩せなされたと申しましても間違いではござりますまい。
領主 (顔色を変えず)何を云うのか。
従者 お気に障りましたら御免下さりませ。
領主 別に気にも障らんが、お前はどうも俺を誤解しているようだ。
従者 ハイハイ、ひょっとすると左様かも知れませぬ。いえいえ、屹度左様に違いござりますまい。あれほど御発明であられたお殿様が(と声を落として、昔を追想するが如き姿)十年前のあの日[#「あの日」に傍点]、あの事件[#「あの事件」に傍点]のあったばかりに、からりと様子がお変りなされ、気抜けしたような御心となり、閉じ篭もってばかりおられました。(間)かと思うとまた近頃、あの女子をこの館へ引き入れられてからは、以前と違い、活発にはなられましたが、御家来衆に対しては昔ほどお情けをおかけ下されず、一にも十にもあの女子のためばかりを計られて、お館の乱れるのもおかまいなされぬのでござりますもの、ハイ、発明のお殿様でさえ、そのようなお心得違いのある世の中に、私のような賎しい奴が、考え違いをするのはあたりまえでござります。
領主 そのように、ムキにならずとものことだ。そんなら何か、近頃俺が皆の者に対して不親切になったから、それが気に食わぬと云うのか。
従者 そればかりではござりませぬ。近頃は大変にソワソワなされます。まるで十七、八の若者が初恋を知った時のように。
領主 (苦笑)それが気まずいと申すのか。
従者 そればかりではござりませぬ。近頃は何彼《なにか》と疑い深くなられました。これもあの女子のためでござりましょう。
領主 あの女子、あの女子とよく云うが、彼女《あれ》は決して悪い女ではない。ほんの無邪気な性質で、例えて云って見れば、空を自由にかけたがる白い雲のようなものだ。(少し考え)もっとも、あまり空をかけたがるので、心もち、フワフワとしてはいるが、それが決して、あの女子の美しい容貌と正直の心とを傷つけはしない。
従者 よく存じておりまする。
領主 それではもうよいではないか(とまた窓に向かわんとするを従者は再び引きとめ)、
従者 たとえ、女子の性質はよいと致しましても、お殿様の御性質《おこころもち》お振る舞いを近頃のように変えさせますれば、何のためにもなりませぬ。却って悪い性質の女子でも、お殿様の性質《おこころもち》[#「性質《おこころもち》」はママ]を変えぬならば、その女子の方が御身の為また私共の為かと存じます。……一体、あの女子は、どこからお連れなされました。
領主 海の彼方《むこう》の淋しい浜辺から、(と窓を離れて丸テーブルの傍の寝台の上に腰をおろす)、海の彼方の淋しい浜辺で、消えて行く帆舟の影を泣きながら見送っていた――あの女子が見送っていた。――それを俺が連れて来たのだ。(間)あの日は、涙ぐんだ日が浜に散っている貝殻と、水に濡れた大きい岩と、そして女子の頬を伝う二筋の涙とを白く照らしていた。女子は忍び泣きに泣きながら、片手に赤い薔薇の花を持ち、それを高く振りかざし、地平線の辺へ消えて行く帆舟を見送っておったのだ。荒れ果てた海岸の淋しい淋しい午後だった。
従者 (領主に向かい合って椅子に腰をかけ)何故そんな女子をお連れなされました。
領主 (恋しそうに)以前《まえ》の妻に似ていたからよ。
従者 (思わず立ち上がり)以前の妻! と申せば、あの若様のお母様《かあさま》の……。
領主 (昂奮して)そうだ、あの不貞の妻に似ていたからさ。
従者 御前様。
領主 不貞の妻だが恋しい女だ。あの女のことを思えば、身も心も消えて行きそうだ。(と思慕の情に耐えざる様子)
従者 御前様。
領主 (その当時を思い出し、声も瞳も力を増す)以前の妻と一緒に住んでいた頃は、俺もお前も若かった。
従者 (なつかしそうに)十年前でござりました。
領主 俺には昨日のように思われる。けれどもまた、この世ではなく、他界の消息のように思われる。ああ、思ったとて考えたとて、二度と再び、あんな幸福の日は送れないと思えば、あの頃の生活が、追いすがって引き止めたいようだ。
従者 私もそんな気がいたします。
領主 十年以前と云えば俺もこんなに衰えてはいず、お前もそうまで年を取ってはいなかった。(間)彼女《あれ》と俺とは(と窓を通して音楽堂を見る)今音楽堂の建っている対岸の岩の上に、小城のような家を構えて住んでいた。そこには水晶のような水を吹き出す噴水も、レモン薔薇の咲き乱れる花園もあった。宵毎に花園には露が下り、虫がその陰で鳴いていた。朝毎に小鳥が囀《さえず》り、柑子レモンの花が小鳥の羽搏《はばた》きで散り乱れた。そして音なく窓にとまり、妻はその花弁を唇に含んで、俺の唇へ口渡しに移してくれた。その時妻の金髪は恋しさにふるえ、妻の眼はしばしも離れずに俺の瞳を見詰めていた。
従者 奥様はバイオリンの妙手でございました。
領主 そうだ、それが何よりも俺の心に残っている。彼女《あれ》はバイオリンの妙手だった。紅宝玉と貴橄欖石とで象眼したバイオリンは、いつも彼女の腕に抱えられていた。
従者 (なつかしげに)奥様は花園を見下ろす窓に倚《よ》って、いつもいつも哀れっぽい歌をお弾きなされました。(間)花園の彼方は底の知れぬ青海で、奥様は人魚が波間に見える見えるとよく申されました。
領主 彼女が歌った歌は、みんな哀れっぽいものばかりだったが、その中でも、「死に行く人魚」の歌が一番悲しい節の歌だった。彼女がこの歌を歌って弾く時は、きっと涙ぐんだ眼で海を眺めた。その様子が、海の中に歌の主の人魚がいて、その人魚へ歌を送ってやると云うように見えた。(間)そしてあの歌を弾きながら歌う声は、ちょうど潮が深い深い洞穴の奥へ、忍びやかに寄せて行くように、幽《かすか》にそして震えていた。(間)俺は、あの歌を唄う彼女を見る毎に、この女は、どうしても果敢《はかな》い運命の女だと思わずにはいられなかった。(長き嘆息)その思いは誤らなかった。
従者 御前様、そのことを思い出しましてはお為《た》めになりませぬ。そんな無惨なことは思わずに、あの頃の楽しかったことばかりをお思い出すに限ります。追想は、いずれ美しく見えるものでござります。ちょうど、桃色の霧で蔽《おお》われた、縞瑪瑙の丸柱を見るように、(間)御前様、奥様は花に溜った露でお化粧をするのがお好きでござりましたな。
領主 (恍惚と)そうだ、彼女は小鳥よりも早く起きて、花園に下りて行き、数條に分かれた庭の小径を、絹の薄物をゆったりと肩から垂れたばかりの朝姿で、アルハラヤ月草や、こととい草や沈丁花の花の間を、白鳥よりもしなやかに歩き廻った。そして花弁に溜った露の滴を、百合の花のような掌に受けて、それで金色の髪をとかした。金色の髪は、耳朶《みみたぶ》を掠めて頬を流れ、丸い玉のような肩に崩れ落ちた。それを左の手でそっと梳《す》き、また右の手でゆっくりと梳いた。梳く度に、薔薇色の日が金髪に映って、虹のような光がそこから湧いた。(間)梳き終わるとそのまま金髪を背に垂れて、傍の小石へ腰を掛け、この場合にも抱えて来た、バイオリンを弾き出すのだ。
従者 何の曲をお弾きなされました。
領主 「死に行く人魚」の歌。
従者 その歌は不吉の歌ではござりませぬか。
領主 そうだ。
従者 何故、そんな不吉の歌をお化粧する間もお歌いなされたのでござりましょう。
領主 その頃は解らなかったが、今になってその意味が少しは解って来たように思われる。あの不幸の女は、自分で歌って自分で泣き、悲しい歌に同情して、それで心を慰めていたらしい。
従者 何故でござりましょう。お殿様と云う立派な情人《おもいびと》がおありなさること故、そのようなことをして、自分の心を慰めずとも、よかりそうなものではござりませぬか。
領主 いやいや、彼女《あれ》は不思議な神経を持っていて、自分の運命の行方を、その時分から、知っていた。
従者 と申しますと?
領主 彼女自身が、死に行く人魚だったのさ。
従者 私にはよく解りませぬが。
領主 誰によく解るものか、一緒に連れ添っていた俺にさえ、彼女が死んで十年も経った今日、やっと少し解りかけた程だもの。(間)だが不思議な運命――魔法使いの銀の杖から音なく形なく現われる、奇怪な運命が、しじゅう彼女の身の上にふりかかっていたことは、確かであったと云うことが出来る。
従者 そんなものが世の中に、あるものでござりましょうか?
領主 あればこそ、彼女が、あんな不幸な最後を遂げたじゃないか。(間)この世の中には神秘の門が、数限りもなく立っているが、それを開ける鍵は一つもない。
従者 奥様はその鍵の一つを持っていたのではござりますまいか。
領主 (従者の顔を見詰め)お前は面白いことを云う。(眼をそらし)彼女は鍵は持っていなかったが、神秘の門を幾度も幾度もおとずれたことはあった。だがそれは、ただおとずれたばかりだった。
従者 お偉い方でござりましたな。
領主 偉いか偉くないか知らぬけれど、不幸の女だった。(間)俺にとっては一生忘れられぬ強い強い記憶である。――
従者 その奥様と、今度この館へ参られた女子《おなご》とが似ていると申すのでござりますか。
領主 (深く頷き)その通りだ。
従者 どこが似ているのでござります。
領主 何から何まで。
従者 あの女子は、バイオリンを弾かぬではござりませぬか。
領主 手では弾かぬが心ではいつも弾いて歌っている。
従者 と申しますと?
領主 文字でも言葉でも絵でも表わせぬあるものをいつも思っていると云うことさ。
従者 それが音楽でござりますか。
領主 音楽だ、それが魔のような音楽だ、それが恐ろしい運命だ!
従者 恐ろしい運命! それではあの女子の身の上にも、魔法使いの銀の杖から湧いて出ると云う、悪い運命が、つきまとっているのでござりますか。
領主 (にわかに立ち上り)ああ、その悪い運命が、つきまとっていればこそ明日の競技が行われるのだ。
従者 と申しても私には解りませぬ。
領主 (寝台より離れて窓口に行き、対岸の頂上に立てる音楽堂を指す)お前にあれが見えるかの?
従者 (領主と並びて窓口に行き)はい、かすんだ眼にもよく見えまする。
領主 何と見えるかの?
従者 以前《まえ》の奥様の記念として、お殿様が業々《わざわざ》お立てなされた音楽堂でござります。
領主 そうだ、前の妻と二人で住んだ対岸の岩の上へ、果敢《はかな》い恋の形見として立てたのが、あの音楽堂だ。あすこには妻の魂と、音楽と、恋心とが籠もっている。(烈しき怒り)そして不貞と! (沈黙。――長き嘆息)そして、そして悲しき運命と、怪しい呪詛と。
従者
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