下げ終わり]

(歌切れると共に女子は疲れ果ててFなる魔法使いの肩にすがる。魔法使いは女子を片手に介《かか》えて海を眺めて彳む。突如高殿よりバイオリンの音聞こゆ。調《しらべ》は短ホ調、歌は「死に行く人魚」の歌)

[#ここから2字下げ]
幻の美しければ
海の乙女の
あわれ人魚は
舟を追う。
波を分けて舟を追う。
月は青褪めぬ、
屍に似たる水の色。
[#ここで字下げ終わり]

(歌と共に高殿の窓開らけて、公子の姿現わる)
Fなる魔法使い (公子の姿を眺め、歌に耳を澄まし)あの歌は以前どこかで散々聞いた歌だ。奈落に沈む悲しげの音が短ホ調へしみこんでいる。あれを歌う男は生きてはいまい。あれを聞く女も死ぬだろう。(間)あれは死の歌だ。(女子もその歌に耳を澄ませて、高殿を見上ぐ。高殿の上にて公子、罌粟畑を見下して弾き且《か》つ歌う)

[#ここから2字下げ]
赤き帆は
追えども遠く離れ行く(ふっと切れ、直につづく)
船の中なる美しき影。
[#ここで字下げ終わり]

(女子はFなる魔法使いより離れて、高殿の方に歩み寄る、Fなる魔法使いはそれを凝視し)
Fなる魔法使い あの歌の力強い響きは巨人のようだ。眼に見えぬ大いなる影が、あの歌の陰にひそんでいて、歌う彼を助けている。それがあの歌を助けている。(間)俺の弾く「暗と血薔薇」の一曲には、邪悪《よこしま》の恋が歌われ、不義の慾望が吟じてあるが、あの短ホ調の一節には、正しい嘆きが篭っている。恋しさを恋する純なる情と、遂げねば死なんと願う心が、三筋の糸の顫《ふる》えから流れ、砒素のような烈しさで、女心をかき乱し、迷いの霧から招いている。(力強く)誰のために誰が作った歌だろう。
公子 (歌い且つ弾く)

[#ここから2字下げ]
ひきとめ難き恋心、
恋心、
遂げねばならぬ恋心、
[#ここで字下げ終わり]

(女子、高殿の下まで行き、公子を見上げ)
女子 若様!
公子 (聞こえぬものの如くに歌う)

[#ここから2字下げ]
水の都の人魚は、
人のなすなる恋の道
[#ここで字下げ終わり]

女子 若様、若様!
Fなる魔法使い (楽器を烈しく掻き鳴らし)あの歌の鋭い神経が、迷った女を醒《さま》そうとする。(突然)俺の敵だ! 死を教えるようなあの歌の清い意味が俺の敵だ。(間)幸福たらんとする乙女、既に幸福なる人妻を、思わぬ邪道に導き行くこのFなる魔法使いの、銀の竪琴の淫《みだ》らの音が、あの清き音に敗けてはならぬ。(突然)敗ける時は俺の恥だ! 千万人に試みて、千万人に成功した我が誘惑の「暗と血薔薇」の一曲が、罌粟畑の血の海でどれだけ音高く歌われるか聞け。(と「暗と血薔薇」の曲を歌う)

[#ここから2字下げ]
暗《やみ》に咲ける緋文字の悪よ
悪の手に培《つちか》われ
暗に咲ける罪の花。
[#ここで字下げ終わり]

女子 (高殿の下よりFなる魔法使いの方に歩み寄り、その肩にすがり)貴郎《あなた》は誰れなの?
Fなる魔法使い (女子を介《かか》え)北へ行こう北へ行こう……。北の浜辺で、お前へ血薔薇の花を与えた若い男は俺だ。
女子 その人は桂の冠をかむっておりました。貴郎にはそれが無い。
Fなる魔法使い (頭に手をやり)桂の冠は、明日の競技に勝った時、俺の頭に載っている。
女子 貴郎は誰なの?
Fなる魔法使い お前の恋しい男じゃないか。
女子 貴郎は誰なの?
Fなる魔法使い Fなる魔法使い! (と女子を介えて海辺へ行かんとす。高殿より再びバイオリンの音聞こゆ。それと共に、「死に行く人魚」の歌を歌う)

[#ここから2字下げ]
人魚の恋はとげられて
はかなく消えし赤き帆や
あわれ幻。
[#ここで字下げ終わり]

(女子はまた、Fなる魔法使いの肩より離れて、高殿を見上げる)
女子 若様!
公子 (歌う)

[#ここから2字下げ]
屍には白き藻草を着せかけん、
瞳の閉じし面には、
かぐろき髪の幾筋と
鈴蘭の花をのせて置く。
[#ここで字下げ終わり]

女子 若様、私は此処におりまする、若様!
公子 (歌う)

[#ここから2字下げ]
死んで行くなる乙女子の
水の都の人魚へ……
[#ここで字下げ終わり]

女子 (高殿の下へ馳せ行き、物狂わしく)若様、若様、私は此処におりまする。
公子 (答えなく歌う)

[#ここから2字下げ]
声もとどかぬ水底の
水の都の同胞《はらから》は、
[#ここで字下げ終わり]

女子 ああ未《ま》だあんな悲しい歌を歌っていらっしゃる。若様!
公子 (歌いつづけ)

[#ここから2字下げ]
行方知れずの人魚を
浮藻の恋になぞらえて、
はかなきものと語り合う。
[#ここで字下げ終わり]

女子 (泣きつつ)若様、若様、若様よう。
公子 (ふっと歌を止めて、すかし見しが、直ちに復《ま》た歌う)

[#
前へ 次へ
全39ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング