物を思わせようと、又血汐のような罌粟《けし》畑で、銀の呪詛をのがれんと、競技の前の夜の半ばに、歌ったのでござります。噫! その「死に行く人魚」の歌は、世にも悲しい弔いの歌となりました。
婚儀の式場とも成るべき音楽堂からは葬式の柩が出で、つがいの鴛鴦《おしどり》の浮くべき海の上には、柩をのせた小舟が浮かび、嘆きの歌を唄わんとして集った小供等は、曇った声で弔いの歌を唄います。祝して鳴らさるる筈の鐘は凶事を伝え、諸国より集りし騎士音楽家は、驚きと怒りと悲しみとを、不思議を見たる瞳に充たせ、ものも云わずに柩を送ります。そして月桂樹の冠はFなる魔法使いの頭に落ち、Fなる魔法使いは、その名誉ある冠を以て、空想の少女を眩《まどわ》さんとし、猩々緋《しょうじょうひ》の舌を動かします。――しかも凶《よこしま》は正《ただしき》に敗け、最後の勝利は公子に帰して、月桂樹は幼い天才に渡ります。――神よ、正しき者に幸あれ!
領主は、凍れる棒の如くに気死して壁により、忠僕は天を睨み、やがて声を上げて泣き仆《たお》れます。噫! 幸福たらんとして不幸となり、楽しからんとして憂いを呼び、平和たらんとして、凶事動乱、潮のように湧き起ります。(と片手を高く差し上げ)、この諸々の喜怒哀楽が、霧に包まれた宝玉のように、水の中の王冠のように、煙の中の城のように、おぼろげに諸君の眼に映る時、諸君は無理の解釈をなされずに、有るがまま、見ゆるがまま、聞こえるがままにくみ取って戴きたい。(片手を下し、後方に静かに退場しつつ)如何にFなる魔法使いが、銀の竪琴に魔を呼ぶか、如何にレモンの花の咲く南方の国の人々が、燃え狂う恋路を辿り行くか、諸君はこの幕が開くと共に、残る方なく知ることが出来ましょう。(と一礼して退場)
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第一場
領主の館の一室 正面に出入口ありて裏庭に通ず。裏庭を距てて静かなる湾あり、湾の対岸は削れるが如き絶壁にしてその頂上には古き白亜の音楽堂あり(但し之は背景《バック》なり)、出入口の左右に大いなる窓あり。窓には窓掛けなく自由に湾の風景を望み得べし。なお室の左右に出入口あり、左の口は主屋に通じ右の口は高殿に通ず。高殿は領主の一子にして年若く美しき音楽の天才ある公子の居室とす。左の窓に近く大いなる丸テーブルあり、丸テーブルを囲みて寝台と椅子とあり。以上の建築装飾は総て中世紀頃の型を用う。
時 夕暮れ落日の頃。
季 初夏。薔薇、レモンの花盛り。
領主 (品位ある風采、この時代の豪族に似つかわしき服装、腰に剣をつるす。左の窓口によりて湾の風景を眺む。)今日の夕日は平素《いつも》よりは別して美しく静かに見える。小鳥や風に送られて日は海に沈まんとし、猩々緋の雲は戦《いくさ》の旗のように空の涯《はて》を流れている。沈まんとする日の美しさはどうだ。黄金の車が焼け爛れながら水晶盤の上へ落ちるようだ。櫛の歯のような御光は珊瑚をとかして振り撒いたような空と海とへ、霧時雨《きりしぐれ》のようにふりそそいでいる。その光は一刻一刻に変わり、その色は次第次第に移って行く。沈まんとする日の上には猶太《ユダヤ》王の袍《ほう》に似た、金繍のヘリ[#「ヘリ」に傍点]ある雲の一群がじっと動かずに浮かんでいる。その雲の上には風信子石のような星が唯一つ、淡く光っているが、やがて日が沈みきると一緒にダイヤモンドのようにキラキラと輝くのであろう。その星の上は緑青《ろくしょう》のように澄んで青い夕暮れの空で、風が小鳥の眠りを誘うように、やさしくやさしく渡っている。(間)猶太王の袍に似た雲が動き出した。錦《にしき》の蛇のように長く細く延びて行く。風が吹くからだろう。細く長く延びた雲は日の面を掠めるばかりにして、海の面へ垂れ下がって来る。(間)海は親切の心を持っているように、雲の影を残らずうつしている。(語を強め)海は寛大だ!
従者 (始めより領主の後方に謹んで彳《たたず》みいる、白髪、忠実質朴の風采、恐る恐る小さき声にて)御前様《ごぜんさま》。
領主 (聞こえぬ如く)海は寛大だ。海は聖人の心のように寛大だ! だがしかし、また法官のように冷やかで厳かで一点の偽りも許さない。仮面偽体虚飾の悪徳は、この海の鏡にうつった時、すっかり化けの皮が剥げてしまう。海は鏡だ。だからあるがままに空の色や光や形が映るのだ。
従者 御前様。
領主 (聞こえぬ如く)それにしても今日の海の美しく平和のことはどうだ。今までもかなり平和で美しい夕べはあったけれど、今日のように漣《さざなみ》一つ立たず、飛魚一つ躍らぬと云うことはなかった。今日の静けさは美人の死のようだ。
従者 (気づかわしげに)美人の死のようだ!
領主 (急に振り返り)何時《いつ》からおまえはそこにいたのか。
従者 はい、先刻からお呼び申
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