ったのに、とうとうお姉様は水門の中へ。……もう白い着物も見えはせぬ。……水門ばかりが。……黒い水ばかりが。……お姉様よう……。
女子 (水門の中にて)ヨハナーンよ、さようなら!
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鳴らさんものか
(その日のために――)
[#ここで字下げ終わり]
少年 お声がする。……お声だけが水門の中から! ……お姉様のお声が。……お姉様! お姉様! ヨハナーンは此処におりますよ。……アーイ、アーイお姉様、ヨハナーンは此処でお姉様を呼んでおりますよ! お姉様よう!
女子 (水門の中にて)ヨハナーン!
少年 (頭髪をむしり)アーイ、お姉様よう。おお、おお、何んて遠くの方で呼ぶのだろう。アーイ、お姉様!
女子 (水門の中にて)さようなら!
少年 (格子を破らんともがきもがき)アーイ、アーイ、お姉様! ……だんだんお声が小さくなる。……お姉様よう。帰って下さいよう。……水門を出て下さいよう。何故私が止めた時お舟を漕ぎ返して下さらなかったの。……ええ、ええ、ええ、もうこのように水門の中へはいってしまっては。……いえ、いえ、大丈夫、大丈夫! 水門を破って。……あんな水門はじきに破れます。……早く此処へ帰って下さいなよう。……塔へなぞ、塔へなぞ!
女子 (水門の中にて次第に幽《かすか》に)さようなら!
少年 (泣きつつ)あれ、あんなにお声が幽になった。……まだ舟は流れて行くのか知ら? 流れちゃいけない、流れちゃいけない。……何故お姉様は止めないんだろう。……お姉様よう。しっかりと舟をお止めなさいよう。しっかりと! 立ち上がって、立ち上がって!
女子 (水門の中にて、ただ僅かに聞きとれるばかりの哀音にて)ヨハナーン、……さよう……なら……。
少年 (恐怖と不安とに声おののき。口に手をあて)お姉様よう。あれあれ、もう千里も遠くへ行ってしまったような幽のお声が。……お姉様よう。……帰って、帰って……お姉様よう。……(耳を澄ます。沈黙《サイレンス》!)あれ、もうお返事がない! 声の聞こえないほど遠くへ行《いら》っしゃったの? いえいえ、そんなことはない! きっとまだあの水門の口においでなさるんだ! ……今はいったばかりだもの! ……お姉様よう、……ご返事をして下さいよう、私の声が聞こえないの。(耳を澄ます)ええ、ええ、だまっている! ……ええ、ええ、黙っている! (口に手をあて)お姉様よう! 一度っきり、一度っきり(とすすり上げ)、そんならお姉様! いま一度っきり此処へ帰って下さいよう。(沈黙! ヨハナーン失望して声を忍んで泣く。場内静。再びヨハナーン気を取り直し)お姉様一度っきり帰って下さいよう! お姉様は私と一緒に此処にいつまでもいると云ったじゃないの! え、お姉様! それは嘘なの嘘を云ったの? 嘘じゃない嘘じゃ無い! お姉様は嘘なんか云いはせぬ。……それだのにお姉様は私を棄てて塔の中へ行ってしまうなんて! ……塔の中に何があるの? お姉様の好きのものがおありなさるの? え、好きのものがあるの? 嘘々《うそうそ》! 何もありゃしない! あんな黒い恐い塔の中にそんなものはありゃしない。塔の中は暗くて淋しくて冷たいばっかりよ。……何故姉様は黙ってるの、今までヨハナーンと私を呼んでいたじゃないの! ヨハナーンと呼んで下さいよう。何故黙っているの、何故、何故、何故! ……私が憎いから黙っているの! 私が、あんなお歌を歌ったから怒っていらっしゃるの? そんならもう、あんなお歌は歌いませんから、一度っきり帰って下さいよう。……まだ黙っている。……ええ、ええ、私の声が聞こえないの? そこまで届かないの? え、お姉様! 私はこんなに大きい声をして――ああ喉から赤い血が流れそうだ――こんなに大きい声をしているのに何故お返事をしてくれないの? (耳を澄ます、沈黙《サイレンス》!)ええ、ええ、私はこんなにお姉様を恋しがって呼んでいるのに、いつまでもお姉様は黙っている。……(塔を吹く風の音)風が吹いておりますよお姉様! そして大変淋しいの。……お姉様がいない故このお室《へや》はお墓の道のように淋しいのよ。いやいやいや、こんな淋しいお室に一人でいるのはどうしたって厭……お姉様、屹度《きっと》屹度私は、お姉様のおっしゃる通りにおとなしくしておりますから。歌を歌えとなら歌いますし、黙っていろとなら一日でも一年でも屹度口をききません! お姉様のおっしゃる通り、おとなしい子になりますから、いま一度っきり此処へ帰って来て下さいよう。……これ私はこんなに頭を下げて頼んでおりますよ。これがお姉様には見えないの、聞こえないの? 私はこんなに……泣きながらこれこんなに(と手を合わせ、頭を下げる)お願い申しておるのですよ! ……ほんとに、ほんとに……私は、お姉様の弟ですのに。…
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